「キリストの洗礼(1)」のイコンの裏面に描かれたものです。「キリストの降誕」を表していますが、主役であるはずの幼子イエスよりも、洞窟の入口に座る聖母マリアの方が、はるかに大きくて目立っています。洞窟の開口部は、尖った三角の切口で、ごつごつした洞窟でありながら、同時に馬小屋の屋根を思わせる形でもあります。
聖母が大きく描かれているのでなおさら、飼葉桶をのぞき込む牛の頭は小さすぎるし、飼葉桶は斜めに傾いていて、滑り落ちそうです。しかし、イコン画家はそもそも人や物を写実的に描こうとはしていません。飼葉桶を地面と水平に置いてしまうと、そこに寝かされたイエスの視線は真上に向かい、聖母の視線とは交わりません。そこで飼葉桶をやや傾けることで、イエスの視線も斜め上の聖母の方に向かうというわけです。
「降誕」のイコンでは、出産を終えたばかりの聖母が横たわる姿で描かれることが多いのですが、ここでは聖母が背筋をすっと伸ばして座っているところが特徴的です。このイコンは両面に図像があって、反対側の面には「キリストの洗礼」が描かれています。そこでは、イコン中央にキリストがすくっと直立しているので、それと対になることを意識して、こちら側の面には背筋を伸ばして座る聖母が描かれたのではないかと推測されます。
聖母の身体は膝下のあたりで途切れていて、足元までは見えていません。画家はそれによって、聖母子のいるごつごつの岩場と、その手前にある、草に覆われたゆるやかな丘を、はっきりと区別したかったのだと思います。
前景に座っているのは、マリアの夫ヨセフと、羊飼いのふりをしてヨセフに近づくサタンです。一見のんびりと牧歌的な風景のように見える場所ですが、よく見るとサタンの悪だくみが展開しているという仕掛けです。おとなしくついてくる羊たちといっしょにやって来た、羊の毛と同じようなふさふさの白い長いひげを生やした老人が、まさかサタンだなんて思いもしなかったのでしょう、ヨセフは、マリアの不義を疑う自分のこころの中を見透かされたかのように、頭に手を置いて困惑したようすです。
ヨセフの頭を抱えるようなしぐさの手に対して、右側に立つ若い羊飼いは、片方の手をまっすぐに天に向かって差し伸べ、一点の曇りも疑いもないようすで、上を見上げています。
彼の視線の先には、天から降る聖霊が描かれていますが、巨大フォークのような、ずいぶん変わった形です。聖霊は光の筋で表されることが多いのですが、このイコン画家は、細い線では表し切れない、何か聖霊の力強さのようなものを感じていて、それを表したかったのではないかと思います。
その先端から白い星が吊り下がっています。すぐそばに三人の博士たちが立ち、そのうちの一人が白い星の方をじっと見ているので、この星が三人を洞窟まで導いてきたのだということがわかります。そして、星は幼子の上で止まり、博士たちにこれこそがイエスであると知らせています。
空の色と洞窟内部の色を見比べてみると、紺色と黒で塗り分けられています。夜の屋外の暗さよりもさらに深い闇が、洞窟の中を埋め尽くしていることがわかります。その闇の中で星の白さが際立ち、地上の最も深い闇にイエスという光がもたらされたことが伝わってきます。
最後に、主役であるはずのキリストがあまり目立たないことの意味について、考えてみたいと思います。飼葉桶やイエスのおくるみが、洞窟と同じ色で塗られているために、目立たないのですが、画家は意図的にこの色を選んだのだと思います。降誕の洞窟は、キリストが十字架から降ろされて葬られることになる、キリストの埋葬の場所を暗示するものでもあります。幼子の飼葉桶を洞窟の一部と重ね合わせ、あたかも洞窟と一つながりであるかのように描くことで、ここで生まれて、ここに葬られることになる、キリストの生と死と分かちがたく結びついた洞窟であることを伝えようとしたのではないかと思います。
表向きどんなに明るく振舞って楽しそうに生きていても、この洞窟と同じくらい深い暗がりを、わたしたちは皆、内側に抱えていると思います。聖母は鮮やかで暖かな朱色の衣を身にまとい、わたしたちが抱えるその暗闇のすぐそばに座っている。イコンは、そのことに気づかせてくれます。
(瀧口 美香)