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キリストの洗礼(1)

キリストの洗礼(個人蔵)

キリストの洗礼を表すイコンです(制作地、制作年代は残念ながら不明です)。左側の洗礼者ヨハネが、キリストの方に手をのばしてその頭に触れています。洗礼者ヨハネの肩の付き方が不自然に見えますが、そもそもイコンは人体を写実的に表すことを目的としていないので、これを見た人たちが違和感を持つことは、それほどなかったのではないかと思います。

イコン中央では、キリストが川の中に立っています。この川の表現も、かなり変わっています。正確な遠近法にのっとって描くとすれば、川の水が上に向かって立ち上がるようなことにはならないはずです。この描き方だと、川に身を沈める洗礼というよりは、水に打たれる滝行のように見えてしまいます。

このような水の描き方がなされた理由は、二つ考えられます。一つ目の理由としては、洗礼を表すギリシア語(baptizo)には、どっぷりと浸すという意味があるので、キリストの全身が水中に沈められていることを伝えようとした、ということです。

もう一つの理由は、川の水が空とひと続きであるかのように描こうとした、ということです。キリストが洗礼を受けた時、天が開かれて聖霊の鳩が降ってきたと、福音書に書かれています。イコン画家は、川と空をつなぐような表現によって、キリストの頭上で天が開かれ、あたかも空が川に流れ込んでくるかのように描いています。

ところで、キリストは身体の前で腕をクロスしています。これは、キリストの頭文字であるXを表すものでしょう。また、小さく畳まれた腕は、大きく広げた腕が十字架に打ち付けられることになる、磔刑の腕との対比を呼び起こすものでもあります。

キリストは、川の中にいるはずですが、切り株の上に立っているようにも見えます。この切り株は、洗礼者ヨハネが語る、よい実を結ばない木は斧で切り倒されるという一節を思わせます(マタイ3:10)。洗礼者ヨハネのこのことばは、イザヤの預言に基づくもので、イザヤは、土地が荒れ果て木は切り倒されるが、聖なる子孫が切り株となって残ると語っています(イザヤ6:11-13)。イザヤはまた、エッサイの株から一つの芽が萌え出で、その根から若枝が育つとも言っています(イザヤ11:1)。切り株に立つキリストの姿は、切り倒された後に残った切り株から新たに芽が芽吹き、それが大きく伸びていくさまを思わせます。

右側の二人は翼こそありませんが、光背があることから天使であるとわかります。二人は向こう岸で、水から上がるキリストを待ち受けています。洗礼者ヨハネの立つ岸(すなわち地上側)と、天使たちの立つ岸(すなわち天上側)は、川によって隔てられているのだけれど、キリストの洗礼によって天上と地上が橋渡しされ、つなげられることが伝わってきます。

正教会では、キリストの洗礼を記念するエピファニーの祭日に、聖水式という式が執り行われます。十字架を水に浸し、水を聖なるものとする儀式です。器に満たされた水に十字架が浸されることもあれば、川で行われることもあります。川で行われる際には、信徒たちが次々に川に入っていき、川の水に身を沈めます。エピファニーは1月6日(ユリウス暦では1月19日)ですから極寒のさなかなのですが、『ペトルーニャに祝福を』というマケドニア映画の中に、そのようすが出てきます。(こちらの予告編でごらんになれます。https://youtu.be/DVNvuSID3HI

洗礼は、罪の浄めを意味しますが、もとより罪のないキリストが洗礼を受ける必要などあるのでしょうか。正教会では、キリストが洗礼の水によってその罪を浄められるのではなく、水を聖なるものとするために、キリストが水の方に入られたのだと考えます。キリストの腕のクロスの形は、聖水式の時に水に浸される十字架を暗示するものとも言えそうです。

イコンの中央を占めるこの川の水が、イコンを見ているわたしたちの方に向かって流れこんでくると想像してみてください。その水に手を浸すとしたら、どんな感じがするでしょう。キリストが身を沈めた聖なる水に、同じようにその身を静かに沈めてみるようにと、このイコンはわたしたちを招いているように思います。その時、わたしたちの内からも、生ける水(ヨハネ7:38)が、川となって流れ出すのかもしれません。

(瀧口 美香)

使用画像:
© 2022 Peter Evan
▼筆者:瀧口 美香(たきぐち・みか)
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