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キリスト教史(1) ― 古代教会

菊地 榮三
目 次

Ⅰ 時満ちて〔1世紀〕

時代背景

 イエスと呼ばれ、やがてキリスト(救い主)と信じられた主のご生誕の時と所は、今から約二千年前のパレスチナであった。この地は当時、ローマ帝国の一部であり、政治的にも文化的にも帝国の影響下にあったことはいうまでもない。さてそのローマ帝国とは、それまでの世界史の中ではもっとも安定した国であり、商業は栄え交通は発達し、教養ある人々の間ではギリシア語が共通の言語として話された国であった。またこの国は、各地方の制度や慣習の多様性を十分尊重しながら、政治や軍事上の統一性を巧みに保つことのできた一大国家でもあった。そしてそこには、星辰信仰や運命信仰が、またそれらの信仰からの解放を約束する幾多の密儀宗教が、さらにはストアやエピクロスの哲学がひしめき合っていたことが、新約聖書からもうかがえる。このように当時のローマ帝国は、外には「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」を誇示しつつ、内には個人の救いや幸福を説く多くの宗教や哲学が見られた国であった。

 キリスト教出現当時の一般的背景は、以上のようなものであったが、より直接的な背景としては、パレスチナの、そしてユダヤ教を挙げねばならない。すなわち、ユダヤ教こそキリスト教の母胎ともいうべきものであった。当時のユダヤ教の中心は、神殿から会堂(シナゴーク)へと移りつつあり、神殿はユダヤ人の尊敬をなおも集めてはいたものの、次第にその活力を失い、それに代わって、律法の学習と祈りの場でもあった会堂が、彼らのいる所にはつねに見られるようになった。この神殿を代表する祭司的貴族的政治的グループがサドカイ派なら、会堂を代表するより信仰的な民衆的律法主義的グループがパリサイ派であった。この両派は互いに反目しながらも、主イエスに対しては力を合わせて敵対した。中でもパリサイ派が、主の最大の敵として登場するのは、彼らが当時のユダヤ教の最有力な指導的グループであった証拠であろう。なお、都会から荒野へと離れ去った第三のグループ、エッセネ派については、死海写本の発見(1947)以来、大きな関心がよせられた。なぜなら、この発見の結果、ユダヤ教の一集団(クムラン教団)の実在が証明され、これがエッセネ派と密接な関係にあることが指摘されたからである。しかもこのグループは、キリスト教の起源にも深く関わるものと考えられる。

教会の誕生

 主イエスは、以上のような外なる安泰に内なる不安を抱えた帝国の片隅に、また以上のようなユダヤ教の状況下にお生まれになった。その生涯については、それを伝える史料に乏しく、とくに主の幼年、少年時代の記録は皆無に近い。しかし、もっとも大切な主の言葉と行いの多くは保存された。主の先駆者といわれる洗礼者ヨハネは、クムラン教団との間に多くの共通点がある人物ともいわれるが、彼は確かにサドカイ派やパリサイ派とは程遠い存在であった。主は、このヨハネからヨルダン川で洗礼を受け、その後しばらくはヨハネの下で、あるいはヨハネ教団の一員として活動されたともいわれる。そして、主がご自身の本来の宣教を開始されたのは、ヨハネの死の前後、ガリラヤにおいてであったと想定してもおかしくない。この宣教とは、神の国、すなわち、神の王的支配の宣教であり、貧しい者への福音であり、また、無制限・無私の愛(アガペー)のすすめであり、この愛の実現こそ主の最大の使命であったといえよう。

 ところで、主イエスとその宣教とが、弟子たちの新しい生命力となったのは、主の生前においてではなく、その死後においてであった。すなわち、主イエスに対する復活の信仰の成立こそ、教会誕生の基盤となった。こうして主イエスをキリストと信ずる者はやがてキリスト者といわれ、そのキリスト者の集会は教会(エクレシア)と呼ばれるようになり、それはパレスチナから帝国の各地へ向かって急速に伸展していった。しかし、この最初の教会、すなわち原始教会の実態は必ずしも一様ではなく、そこには早くから様々な対立・不和・矛盾が見られた。たとえば、最初のキリスト者であるヘブライ語を話すユダヤ人(ヘブライオイ)と、ステパノのようなギリシア語を話すユダヤ人(ヘレニスタイ)の間にも、またユダヤ人と異邦人の間にも、そして主の兄弟ヤコブを中心とするエルサレム教会と、パウロに代表されるヘレニズム教会の間にも、そのような不幸な争いが見られた。使徒会議(49頃)が開かれたのも、その溝をこれ以上深めないための打開の一策だったに違いない。原始教会は、このようにその門出から前途の多難が予想されたが、その創業のみずみずしいエネルギーをもって、一つなる真の教会の形成を目指して旅立ったのである。

Ⅱ 内憂と外患〔2-3世紀〕

正統と異端

 時がたつにつれ、教会にも新たな問題が生ずるのは当然であった。教会も2世紀を迎える頃には、主の直接の弟子たちは、その大方がこの世を去っていた。また、最初のキリスト教への改宗者はユダヤ人であったが、異邦人の改宗者も次第に増えつつあった。2、3世紀になると、信仰上の混乱や争いが教会の土台を大きくゆさぶることになるが、その要因としては次のようなことが考えられる。すなわち、異邦人の改宗とともに、教会に異教的要素が大量にもたらされたことや、それにもかかわらず教会には、主イエスの弟子なきあと、信仰的に強力な指導力が欠如していたことなどが挙げられる。

 初期の異端的信仰には、エビオン宗のように、キリスト教の看板をかかげながら、ユダヤ教から脱皮しきれないものが主だったが、教会への異教的要素の流入によって、次第にギリシアや東洋的な諸思想との混合になる異端が多くなった。古代教会の三大異端としてグノーシス主義、マルキオン主義、モンタノス主義を挙げる人も多いが、中でもグノーシス主義は、教会を脅かした度合いにおいても最大の異端といってよいであろう。二元論的な救済信仰を説くこのグノーシス主義の起源は、キリスト教以前にさかのぼるといわれるが、教会に入って来てキリスト教の教理や名称と巧妙に結合しながら、多くのキリスト者の心を奪うことができた。ところで、正統と異端の境は必ずしも明確ではなく、その違いは信仰内容にあるとはいえ、ともにキリスト教の真理を主張する点では変わるものではなかった。当時、グノーシス主義やマルキオン主義が、多くのキリスト者を魅了することができたのも、そこにはキリスト教の真理が、部分的にせよゆがんだ形にせよ、包含されていたからに他ならない。

迫害

 教会内の正統-異端の争いを内憂とするならば、教会最大の外患は迫害の問題であった。『使徒言行録』も伝えているように、初期のキリスト者は「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」、また「民衆全体から好意を寄せられた」ということである。しかし、ユダヤ教徒とキリスト者の親交の期間は長くは続かなかった。すなわち、十字架に処刑されたイエスをメシアとする信仰や、ユダヤの伝統的儀式の無視あるいは改変が明らかになるにつれて、両者の関係が険悪なものになったとしても不思議ではない。そしてついに、主イエスを「正しい人」と告白したステパノは最初の殉教者となった。このように、キリスト者への最初の迫害はユダヤ教からのものであったが、教会がローマ帝国内に進出するにつれて、やがて帝国の民衆から、さらには皇帝から迫害を受けることとなった。

 さて、ローマ帝国のキリスト者迫害は、はじめ、国家の一貫した政策的迫害ではなかった。すなわち、1-2世紀の迫害の原因とその性質とは、3世紀以降の迫害とは一応切り離して理解すべきであろう。では1-2世紀の、しかも帝国の比較的寛大な宗教政策の下で、なぜキリスト者の迫害が起きたのだろうか。まずその実質的な迫害の主体は、ローマ当局というよりは一般民衆であったといえる。当時キリスト者は、無神論者、無政府主義者などのレッテルをはられ、またその宗教的、道徳的異質性や政治的非妥協性はしばしば非難されていた。そこには民衆の誤解や偏見もあったが、当時の迫害の根底には、このようなキリスト者に対する民衆の憎悪やねたみや敵意が横たわっていたように思われる。当時の迫害が地域的、断続的であったのもそのためであろう。その点、3世紀以降の帝国の状況は、教会の伸長に反して衰頽しつつあり、今や教会は皇帝たちにとって、国家内の国家、つまり帝国にとって無気味な存在にも見えはじめたに違いない。250年のデキウス帝の迫害、それに続くヴァレリアヌス帝の迫害、そして古代最後の大迫害といわれるディオクレティアヌス帝の迫害は、いずれも皇帝自らの勅令による国家的規模の迫害であり、その原因はこうした当局の危機意識によるものであった。

カトリック教会の成立

 キリスト教会は、内部的には以上のような異端と戦うことによって、正しい信仰とは何かについて改めて自らに問わねばならなかった。もし信仰上の動揺と混乱の中に、しかるべき信仰内容を示すことができなかったならば、教会は自滅したであろう。また外部的には様々な迫害の下、背教者が続出する中で、もし教会がそのあり方、その組織、一致の問題などについて真剣に対処することがなかったならば、これまた教会の存続を不可能にしたことであろう。人間個人も、様々な試練に耐えることによって逞しく成長するように、教会もまた然りであった。より事態に即していうならば、教会は以上の内憂・外患からわが身を守るべく、信仰の規範というべき信仰告白(信条)と、権威ある新約正典と、主教制度とによって、しっかり組織化された教会へと変わっていった。そしてこのような教会は、次第にカトリック(正統)教会と呼ばれるようになり、2世紀後半から3世紀にかけて、徐々にその実質を備えていった。

 確かにドイツの著名な教会史家がいうように、「50年頃には、教会の成員は、洗礼と聖霊とを受け、イエスを主と唱える者とされたが、180年頃には、信仰の基準(信条)、新約正典、主教の権威を承認する者となった」。この原始教会からカトリック教会への大きな変容をどう見るかは一様ではない。これを教会の前進と解するか後退と解するかは、われわれ一人ひとりが問われていることであるが、このカトリック教会への変容は、以上の内憂・外患の危機からの産物であると同時に、この変容は、それによって2-3世紀の危機を切り抜け、よくキリストの福音を守ることができた賜物とも思われる。

Ⅲ 国教への道〔4-6世紀〕

状況の大転換

 ディオクレティアヌスの迫害は、当時の皇帝がキリスト教にとりうる二つの道の一つであった。二つの道とは、教会を力づくで粉砕する迫害の道と、教会と同盟し、その勢力・組織を自らの支配下に組み入れる受容の道とであった。コンスタンティヌス大帝は、この後者の道を歩むことによって、帝国と教会の間に全く新しい局面を開くこととなった。彼はミルヴィウス橋の戦いで勝利をえて以来、ますますキリスト教の神が自分に勝利を与えたものと信じた。そして313年にはリキニウスとミラノに会し、キリスト教に完全な自由を認めた。これがいわゆる「ミラノの勅令」である。その後彼は帝国全土の皇帝となってからも、ますます教会に特典的地位を与え、国家と教会との関係はいよいよ緊密なものになった。彼以後、ユリアヌスのようにキリスト教から離反する皇帝もいたが、もはや教会を脅かす力とはなりえなかった。このように、コンスタンティヌスによって始められたキリスト教受容の道は、テオドシウス一世が、さらに国教の地位にまで高めるにいたって、完結したといえよう。

 さて、この4世紀以降の著しい状況の変化は、教会にとっては当然喜ぶべきことであった。命がけで信仰を生きねばならなかった前時代と比べれば、教会は今やその生存権が保証されたばかりでなく、太陽の下、誰はばかることなく闊歩する観があった。この時代の修道院の発展、教父たちの大活躍、皇帝たちの招集する公会議、これらはこの新しい状況を無視しては理解されない。さらに、ゲルマン民族の侵攻や西ローマ帝国の滅亡(476)に見られるように、かつて不動の安泰を誇った帝国が衰えゆくにつれて、教会は却ってその権威を強め、ことに西方においては、その国家滅亡後、ますますその勢力を拡大した。しかしこのことは、同時に教会の俗化の傾向が増大することでもあった。すなわち、国家と教会の提携は、しばしば教会への国家の支配、干渉をもたらした。また急速な安易なキリスト者の増加は、信仰の形骸化や歪曲化を容易にし、教会の世俗的権力の増長は、教会の非教会化を招かなかっただろうか。国教への道が、果たして栄光と勝利への道であったか、それとも俗化と敗北の道であったかは、これまたわれわれが問われていることがらである。

教理の確立

 2-3世紀に、キリスト教会がカトリック教会として成立したということは、正統信仰の3つの基準(信条、新約正典、主教制)が設定されたということでもあった。しかし教会には、いまだキリストの神性に関する教理も、父・子・聖霊に関する三位一体の教理も、またキリストの神人二性に関する教理も、確立しているとはいい難かった。教会は、帝国の支配者たちからは、頼もしい一枚岩に見えたかも知れないが、その内部では、とくに東方においては、教理に関する論争が絶えなかった。325年、コンスタンティヌスがニカイアに、教会の世界会議すなわち公会議を招集したのは、こうした論争が深刻な抗争へと拡大し、もはやアレクサンドリア一地方の問題ではなくなっていたからであった。

 このニカイア公会議は、父と子は本質的には異なるとしたアレイオスを断罪し、父と子は本質的に同一であるとしたニカイア信条を採択したが、この抗争に終止符が打たれ、三位一体の教理が結実するためには、381年のコンスタンティノポリス公会議を待たねばならなかった。これに続くもっとも重要な教理論争は、キリストにおける神性と人性との関係如何ということであろう。そしてこの問題は、451年のカルケドン公会議において一応の決着を見た。すなわち、この会議は、それまでの異端的な諸説を斥け、キリストのペルソナのうちに神性と人性とを等しく強調することによって幕を閉じた。このカルケドンの決定(定式)は、しばしば曖昧な教理、あるいは妥協的な信条と評されるが、この決定を、理論を意味するものでなく原則を提示したものと解するならば、それは今日にも十分耐えうる教理と見ることができる。

 以上、キリスト教会は、古代において、正統信仰の基準を設け、さらに主要な信仰的課題を教理として確実なものにした。しかもそこには、教会を外から守り、内から固めるために献身した多くの教父がいたことを忘れてはならない。すなわち、外に向かってキリスト教の真理を弁証する者、内なる異端と戦う者、信徒に正しい教会生活を説く者、聖書や神学の研究に専念する者などがきら星の如く現れた。そして彼らの著作の中には、時代を超えて、古代の豊かな信仰心のぬくもりを今日に伝えるものが少なくない。

著者:菊地 榮三(きくち・えいぞう)
立教大学名誉教授、元聖公会神学院校長。京都大学文学部哲学科基督教学専攻(旧制)卒業、同大学院研究科中退。 主な著書として、『イギリスの宗教』(共著、聖公会出版、1980)、『キリスト教史』(共著、教文館、2005)など。

(本稿は、BSA信徒叢書 5『 古代教会:キリスト教史(一)』(1990)を、著者と関係者の許可を得て転載したものです。冊子のお求めはこちらをご覧ください。

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