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キリスト教史(2) ― 中世-現代

菊地 榮三
目 次

Ⅳ 中世の世界〔6-15世紀〕

教会の新たな進展

 ここでの中世とはヨーロッパ中世のことであり、通常、5、6世紀のゲルマン民族大移動期から東ローマ帝国滅亡(1453)までをいう。ではこの約千年の間に、キリスト教会はどのように進展したのだろうか。文化的・政治的背景を異にした東西の両教会は、すでに古代から神学的にもそれぞれの特徴を発揮していたが、9世紀にはコンスタンティノポリスの総主教フォティオスの紛争を契機として次第にその溝を深めることとなった。そして1054年には両教会は完全に分裂するに至った。

 なかでも西方の教会は、西ローマ帝国滅亡(476)後、いよいよローマを中心に発展し、フランク王国をはじめゲルマン人の諸国家が次々とカトリック信仰に改宗するにつれて、ヨーロッパ、特に西欧の精神的な統一の支柱として重要な役割を担うことになった。とくにカール大帝(シャルル・マーニュ)が800年のクリスマスの日に、聖ピエトロ大聖堂で教皇レオ三世より皇帝の冠を受けたことは、新帝国とこの西方のローマを中心としたカトリック教会との固い結合を示す象徴的出来事であった。他方東方の教会は、東ローマ帝国の教会支配の中にありながら、自らを正統(オーソドックス)教会と呼び、独自な教会組織、教理、典礼を形成した。しかし11世紀以降は、トルコ軍の進入によって弱体化し、遂に15世紀、東ローマ帝国が滅びた時には、東方の教会もまた一時壊滅状態に陥った。こうして中世のキリスト教会は、東西に別れそれぞれ独自な道を歩むことになったが、中世の教会史が一般にローマ・カトリック教会を中心とする西方のキリスト教を軸に綴られてきたことには以上のような理由があったといえよう。

西方教会(ローマ・カトリック教会)のその後

 さて、中世の西方教会は皇帝権との抗争の歴史ともいわれるが、カール大帝なきあと、帝国の権力は衰微し、それに代わって教皇権の独立が進行した。しかしそれも束の間、10世紀前半には半世紀の間に十数人の教皇が入れ替わるなど、また悪名高い貴族婦人による教皇庁支配(娼婦政治)すら出現したといわれる。中世に暗黒時代ありとするならば、この時期こそがそう呼ぶにふさわしい時代であったかも知れない。

 ところで、こうした頽廃の時期は改革の時機でもあり、その改革運動の拠点になったのが東フランスのクリューニー修道院であった。聖職の売買や司祭の結婚に反対した教皇レオ九世もこの修道院の精神を精力的に推進した一人だが、特にこの改革運動の頂点に立ったのは教皇グレゴリウス七世(ヒルデブランド、位1073-85)であった。彼と皇帝ハインリヒ四世(ドイツ王)との聖職叙任権をめぐる確執は特に有名であり、カノッサ城の門前で皇帝が悔悛の実を示したといわれる「カノッサの事件」は、教皇の権力に対して皇帝が受けた最大の屈辱として人々の記憶に残った。この争いも結局は、ウォルムス協約(1122)というひとつの妥協で終わることとなったが、教皇の権力はその後13世紀末までは皇帝の権力をおおむね凌駕したのである。

 12、3世紀はカトリック教会の全盛期といわれ、なかでもインノケンティウス三世の下に教皇庁はその政治的権力の絶頂に達した。聖餐における化体説(全質変化の教理)など、カトリックの主要な教理や制度のなかで、この時期に成立あるいは芽生えたものも少なくない。また中世の学問、すなわちスコラ学もこの時期に全盛期を迎え、パリ、オックスフォードなどの主要な大学も中世のこの時期に創設されたものが多い。さらに12、3世紀には、時代の変遷に対応しながら、新しいタイプの修道会、すなわちフランチェスコ会、ドミニコ会に代表される「托鉢修道会」が生まれた。ことにフランチェスコの豊かな霊性などはいつの時代にも信仰者の鑑とすべきものである。なお十字軍の大半が、その原因は一様でないにしても、この期間に起こったことは注目される。

 14、5世紀は一言でいえばカトリック教会の衰退の時代であった。教皇ボニファティウス八世とフランス王フィリップ四世との争いは「逆のカノッサ」といわれたように、教皇にはもはや往時の権威はなくフランス王に屈伏し、その後の7人の教皇も約70年間、フランスのアヴィニョンに教皇庁を移さねばならなかった。その後の約40年間も、教皇が同時に2人即位するという「大分裂の時代」を迎え、その後幾たびとなく会議を開いて教会の刷新を図ったが、歴史の流れはいかんともしがたかった。他方、空名に等しくなりつつあった神聖ローマ帝国に代わって、国民的な国家が台頭してきたことや、平信徒の自由な精神的高揚もまた、これまでの中世的キリスト教世界の解体を促進した要因といえよう。

東方正教会(ビザンティン教会)

 西方教会と同じく、東方正教会も古代に成立した「カトリック」教会を基盤としているが、教皇制度を持たず、しかも西方教会よりもより古代教会的であった。すなわち、この教会は基本的な点で、コンスタンティヌス大帝直後のキリスト教会の段階に長らく留まったといえる。

 ここでは、聖画像論争が最も重要な出来事であろう。この論争は百年以上にわたって当教会を分裂させ、東方社会に大きな政治的、社会的不安をもたらし、834年ようやく聖画像の破壊に終止符が打たれた。この論争には様々な非宗教的要因も働いたが、その中心には常に教理の問題があった。聖画像(イコン)を偶像視する人々の多い社会では、それを破壊することがむしろ聖書的である場合もあろうが、これに反対し聖画像を崇敬する理論も提示された。その代表的な神学者の一人、ダマスクスのヨアンネスにとって、聖画像は「沈黙の説教」、「字の読めぬ者の書物」であり、また聖画像に払う「崇敬」と生ける神にのみ捧げられる「礼拝」とは本質的に区別されるべきであった。

 次に東西両教会の分離の契機となった前述のフォティオスの紛争であるが、その重要課題の一つは、聖霊の発出が「父から」か、それとも「父と子から(フィリオクェ)」かの今日にも及ぶ論争であった。そして、前者の教理は東方教会のものであり、西方教会は広く「フィリオクェ」を受け入れてきたのである。

V 分裂から並存へ〔16-17世紀〕

宗教改革

 西欧の16、7世紀は、キリスト教会にとって信仰分裂の時代であった。その発端は大事件に発展するような出来事ではなかった。すなわち、当時カトリックの司祭であり大学の教師であったルターが、1517年10月末日、「95箇条の提題」を掲げて神学討論を呼びかけたのに始まる。ところでこの呼びかけは、教会に大きな波紋を投げかけることとなり、その運動はやがて教会を越え、政治的争いを伴いながらヨーロッパ全土を巻き込むことになった。

 さて、ルターの信仰には、聖書のみが信仰生活の唯一の規範であること、そしてその信仰によってのみ神の前に義とされること、また神の前には祭司、信徒の霊的区別はないこと(万人祭司)などの特色が見られた。そしてこれらの主張は結果的には教会のこれまでの諸権威、諸伝承、諸組織の否定または修正を迫るものとなったのである。

 ルターに始まるこの改革の運動は、間もなくスイスに波及、ここに新たな形態の福音主義的キリスト教=改革派教会が生まれた。まずそれはスイスのドイツ語圏内のチューリヒを中心にツヴィングリによって、続いてスイスのフランス語圏内のジュネーヴを中心にカルヴァンによって引き起こされた。殊にカルヴァンの改革は、自らの教会を「神の言葉によって改革された教会」と呼んだように、徹底した改革を意図したものであった。

 なお、カトリックに対しては勿論のこと、ルターやカルヴァンのいわゆる「プロテスタント」に対しても安住できず、より徹底的な信仰へと向かったグループのあったことも忘れてはならない。例えば、ミュンツァーの運動、再洗礼派、反三一派などがそれであり、これらのラディカルなグループについては、今日からも学ぶところが少なくない。

 イングランドの宗教改革は、その発端においても結末においても、大陸のそれとは著しく異なっており、この地では英国国教会(聖公会)が誕生した。それはヘンリー八世の治世にその基盤が作られ、次のエドワード六世の時によりプロテスタント化し、続くメアリ一世の時には逆にカトリック化するなど、大きく揺れながらエリザベス一世の時代に漸く結実した。特に、彼女の治世に制定された「三十九箇条(聖公会大綱)」(1563)は、ローマ(カトリック)とジュネーヴ(プロテスタント)との中道(ヴィア・メディア)をいく英国国教会の立場を明らかにしたものといえよう。

ローマの対抗改革

 カトリック教会は、このような宗教改革の嵐の中で崩壊したのではなかった。それどころか、神学、教理の面でも、また従来の教会的慣行についても自らを更新し、宗教改革に対抗する一大運動を展開した。トリエント公会議の開催やイエズス会の誕生はまさしくその現われである。

 1545年からイタリアのトリエントで開かれたこの改革的な会議において、カトリック教会は教理の面でも反プロテスタントの性格を明らかにし、またこれまでの教会内部に見られた多くの弊害の除去に努めた。すなわち、聖書と聖伝(伝承)とは共に真理の源泉であること、カトリック教会のみが聖書解釈の権利を保有すること、旧約外典を正典とすることなどが決められた。他にも聖職者の定住を要求し、職位の兼有を禁止するなどの改善の努力がうかがわれた。こうしてこの公会議は、近代カトリック教会の基盤を作ることになったが、同時にプロテスタントの諸教会との溝を深めたことも否めない。

 次に、スペインの貴族として生まれたイグナティウス・ロヨラは、同志を集めイエズス会を結成、それは間もなく教皇の認可を受けることとなった(1540)。このイエスの軍隊とも言うべき団体は、実践的、戦闘的、禁欲的な点ではカルヴァンの教会に似ていた。またそれは「より大いなる神の栄光のために」をモットーに、その目指すところは世界布教であり、異端を絶滅し異教徒を回心させ、教皇の主権を世界に確立することであった。また、各イエズス会士はイグナティウスの『霊操』によって修練を受けながら、説教者、告解聴聞者、学校の教師として、また海外では宣教師として活躍し、対抗改革の最前衛となった。ちなみに、日本に最初にキリスト教をもたらしたフランシスコ・サビエルは、最も優れたイエズス会士の一人であった。

 さて、以上のような信仰分裂以来の新旧両教会の抗争は、1555年のアウグスブルク講和によって一応の落着を見たが、その解決は不徹底なものであり、そのことはやがてドイツ国内での最後、最大の宗教戦争といわれる三十年戦争の原因ともなった。そして1648年のウェストファリア条約によって、両教会の勢力は漸く均衡を保つことが出来た。すなわち、カトリックとプロテスタントの両教会は、相互寛容の状態から、完全な同権の承認へと前進したのである。

Ⅵ 並存から一致へ〔18-20世紀〕

近代世界とキリスト教

 16、7世紀のキリスト教会の対立、分裂は確かに大きな出来事であったが、それがいかに深刻なものであっても、キリスト教が真理であると信じていた点では一致していた。すなわち、カトリックとプロテスタントのいかなる論争も、キリスト教の真理を自明の大前提としての論争であった。ところが、18世紀以降のヨーロッパの状況は、こうした大前提が大きく揺らぎ、それまでのキリスト教的世界観の統一は崩れ始めた。つまり、キリスト教に疑問を抱く思想や、さらにはキリスト教を否定する思想が堂々と名乗りを上げ出したのである。このことは、ヨーロッパの世界が再びコンスタンティヌス大帝以前の、諸宗教が競い合ったあの古代世界を思わせる状況になったということである。そして、このような状況に拍車をかけたのが、啓蒙主義の運動であった。18世紀に頂点に達したこの思想は、理性の自立、理性の光によって、封建制、迷信、因習の打破に一役を買ったが、理性への過度の信頼によって、人々の心に人間中心主義やおごりをもたらしたといってよい。

 次に、18、9世紀のキリスト教会の大きな特色として、外国伝道をあげることが出来る。伝道ということはキリスト者の信仰の必然的発露であり、教会の歴史は初めから伝道の歴史でもあったが、近世以降のヨーロッパの諸教会は、特に「外国伝道」の名において積極的な運動をするに至った。個人によるもの、教派的組織によるものなど実に沢山の伝道が開始され、聖公会に関係あるものでも、SPG(英国福音伝播協会)、CMS(英国教会伝道協会)などがある。また、キリスト者の様々な種類の団体や運動が起こり、フレンド教会(クエーカー)を中心とした奴隷解放運動、超教派的なYMCA、YWCA、キリスト教婦人矯風会など、聖公会内にもBSA、GFSなどが生まれた。なお、こうした団体は本来的には純粋な宣教団体であったが、それらが所属する国家の一団体として、国家の対外政策の中に巻き込まれる危険性もあった。また、キリスト教そのものと欧米文化とを混同することから、不幸な誤解や混乱を招いたこともしばしばである。

現代キリスト教の動向

 現代の教会の錯綜した状況を全体として語ることは極めて困難だが、大勢として諸教会が一致、協力の方向に歩んでいることは確かであろう。すなわち、世界教会運動とか教会一致運動と呼ばれている「エキュメニズム」――原語のギリシア語の「オイクーメネー」は、「世界」、「人類」、などの意――の運動は、今日のキリスト教世界にあっても、最も注目に値する現象の一つといえる。

 顧みれば、教会は11世紀の東西両教会への大分裂や、16世紀の西方教会(カトリック)からのプロテスタントの独立といった分裂を始めとして、分裂に分裂を重ね、その亀裂を修復出来ぬままに20世紀に至った。しかもこの分裂が今日ほど全教会の痛みとして、またその存立の危機として感じられている時も少ない。エキュメニズムの問題は今に始まったことではないが、特に今日のエキュメニズムは、諸教会が様々な相違にもかかわらず同じ一つの土台の上に建てられているのだというその自覚の強さにおいても、また東方正教会とカトリック、カトリックとプロテスタント、そしてプロテスタント諸教会相互の対話といったその規模の大きさにおいても、さらに、洗礼、ユーカリスト(聖餐式)、ミニストリー(奉仕職)などの極めて根本的な教理的問題に取り組むに至ったその交わりの深さにおいても、往時のエキュメニズムとは比べるべくもない事柄と思われる。例えば、1981年の聖公会-ローマ・カトリック間の『最終報告』や1982年の『リマ文書』などはその成果を示すものである。

 思うに、現在は依然として不正、孤独、差別、抑圧、飢餓、戦争、暴力、貧困などによって生命が脅かされている状況といえる。そして教会は、これらの一つ一つの中に愛の欠如と罪の支配を認め、また真の交わりの必要に目覚めつつあるといえないだろうか。今日のエキュメニズムの問題は、このような現実への目覚めの中で起こったものであり、単に教会間の相互理解の可能性を探るだけの運動ではありえない。したがって、洗礼、聖餐式、奉仕職、権威といったテーマ自体は教会一致のための昔ながらのテーマであっても、それらのテーマによって問われているものは、この世界における人類の一致と切り離すことの出来ない新しい問いである。それゆえ、その問いへの解答も人類共同体の実現と結びついた新しい解答であるべきであろう。

著者:菊地 榮三(きくち・えいぞう)
立教大学名誉教授、元聖公会神学院校長。京都大学文学部哲学科基督教学専攻(旧制)卒業、同大学院研究科中退。 主な著書として、『イギリスの宗教』(共著、聖公会出版、1980)、『キリスト教史』(共著、教文館、2005)など。

(本稿は、BSA信徒叢書 6『 中世―現代:キリスト教史(二)』(1991)を、著者と関係者の許可を得て転載したものです。冊子のお求めはこちらをご覧ください。

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