このイコンは、イエスの復活から50日目にあたる、聖霊降臨のできごとを表しています。この日、激しい風の音とともに炎のような舌が現れて、使徒たち一人ひとりの頭の上に降り、彼らは霊に満たされて、他の国のことばで語り始めたと伝えられます(使徒言行録2)。
12人の使徒が、U字を逆さまにしたような形の長椅子に腰かけています。背景には、切妻屋根の建物と、角柱の塔のような建物が見えます。使徒たちの足元を見ると、アーチ型の開口部があって、中に一人の人が立って布を広げています。使徒たちの足元に、地下室へと続く出入口がある、ということでしょうか。それにしても不自然です。建物の構造がどうなっているのか、よくわからないからです。そもそもこの暗がりは、いったい何を表そうとしているのでしょうか。そして、王冠をかぶっている人はいったい誰なのでしょうか。
使徒たちが座っている長椅子は、シントロノンを模して描かれています。シントロノンとは、もともと聖堂のアプシス(至聖所)の、半円形の周壁に沿って作られた聖職者の席です。(シントロノンの写真はこちら)
手前(画面の左右の隅)に座っている人と、奥(画面中央)に座っている人では、頭の高さがずいぶん違っています。中央にいるのは、使徒の筆頭に立つペトロとパウロですが、彼らの座席の面は手前に向かって傾斜していて、こんなところに座ろうとしたら、ずるずると滑り落ちてしまいそうです。正しい遠近法に従って描くとすれば、逆さまのU字のきついカーブをもっとゆるやかにして、頭の高低差を減らし、奥にいる人よりも手前にいる人を大きく描く必要があります。しかしながら、ここでは正確な空間の再現よりも、ペトロとパウロを他の使徒たちよりも高い位置において大きく描く、ということが優先されています。
古くから、聖堂の地下にクリプタ(聖遺物がおさめられる祭室)が設けられることがありました。使徒たちの足元の開口部は、クリプタのようにも見えますが、アプシスの床面に、直接地下へと降りていく穴が設けられているというのは不自然です(クリプタに続く通路は、たいていの場合アプシスの中ではなくて、アプシスの両脇にあるからです)。
それでは、この奇妙な開口部は、いったい何を表しているのでしょうか。一つの仮説ですが、聖堂のアプシス(東側)と、その向かい側にあたる西の出入口を、同時に表そうとしたものではないかと思います。聖堂の平面図を見ると、アプシスと出入口は向き合っています。それを、ひとつの平面上に無理やり重ねてしまったということです。
かなり唐突な仮説に聞こえるかもしれませんが、暗がりの中にいる人は誰なのか、ということを探っていくと、ここが聖堂の出入口であるという仮説も、あながち見当はずれではない、と思えてくるはずです。
というわけで、この人が誰かということを、次に考えてみたいと思います。結論から先に言うと、これは「全世界」の擬人像です。全世界を表すにあたって、大勢の人々のすがたを描くかわりに、一人の王を代表として描いているのです。つまり、全世界の人々が、これから使徒がキリストの教えを伝えにやって来るのを待っているということです。王冠をかぶった「全世界」の擬人像は、赤い布を広げています。布に載せられた12の巻物は、使徒の教えを表しています。
聖霊に満たされ、光のオーラの中に包まれた使徒たち。彼らがこれから出かけて行こうとしている、キリストを知らない暗がりの世界。それを重ねて配置することで、対比を作り出しているのです。聖堂の東端(一番奥にあるアプシス)と西端(入口)を、向き合うものとしてではなく、一つの平面に重ねて置くというのは、空間を三次元的に再現して表す絵画を見慣れているわたしたちにとっては、違和感がありすぎて、理解しがたいものです。しかし、光に包まれた使徒たちが聖堂の中にいるのに対して、罪によって包まれた暗がりの世界が聖堂の外に見えていると考えれば、その違和感も少しだけやわらぐかもしれません。
王冠の擬人像について、もう少し説明したいと思います。この擬人像は、もともと旧約の預言者ヨエルを表すものだった、という説があります。使徒言行録によれば、ヨエルは聖霊降臨を預言したからです(2:16)。後に、預言者が王に姿を変えて描かれるようになった、ということです。
あるいは、王冠をかぶった擬人像は、旧約の王ダビデであるという説もあります。使徒言行録によれば、ダビデはユダの裏切りを預言しました(1:16)。そしてこの日、ユダの代わりにマティアが使徒として選ばれたので、聖霊降臨の日に間接的に関係のあるダビデが、ここに描かれたという説です。
二つの説をご紹介しましたが、王冠をかぶった擬人像には、しばしばkosmos(ギリシア語で「世界」を意味する)という銘が付けられていることから、(ヨエルやダビデではなく)これから使徒たちが宣教に出かけるところの世界を表している、というのが定説となっています。
それでは、もう一つのイコンを見てみたいと思います。
ここでは、使徒たちの席が蛇腹のような形で表され、ちょっと座りにくそうです。ですが、座席が階段状になっていて、端から中央に行くにしたがって、座席が高くなっていることを表そうとしているようにも見えます。端(画面の手前)に座っている人と、奥(画面の中央)に座っている人の高さが違うのは、ベンチに段差があるからです、と説明しようとしているのかもしれません。最初のイコン同様、非合理的な空間であることは変わりないのですが、少しでも合理的に見えるよう、工夫をこらしているということです。
ここでは、背景の塔がなくなっているかわりに、使徒たちの足元に、迷路のように入り組んだ塔のような建物が描かれています。いくつも塔があるように見えます。人の姿らしきものが見えますが、王冠をかぶった擬人像の姿はありません。
塔といえば、旧約聖書のバベルの塔が思い浮かびます。バベルの建設者たちは、傲慢にも天に届くほど高い塔を作ろうとしたために、その塔は神の手によって打ち壊されてしまいました。彼らは、お互いの言語が理解できないように混乱させられ、散り散りにされてしまったのです。こうして地上に住まう人々は、さまざまに異なった言語を話すようになり、お互いに理解しあえなくなってしまいました。
暗がりの中にごちゃごちゃと入り組んで建てられた塔を見ていると、さまざまな言語を話す人たちが入り混じって住んでいる地上を表そうとしているように見えてきます。バベルの塔が壊された後の、さまざまな言語が乱立する地上の姿のように見えるのです。
しかし、その地上に、聖霊に満たされてさまざまな言語を理解することができるようになった使徒たちが、キリストの教えを伝えるためにやって来ます。彼らは、この入り組んだ迷路のような地上へと踏み出し、暗がりの中に光の道すじをつけるのです。
最後に、ジョットの聖霊降臨を見てみたいと思います。
ジョットはルネサンスの画家で、正教会の伝統的な聖霊降臨の図像を知っていたものの、ビザンティンの不正確な遠近法や、非合理的な空間の描き方は採用せず、独自の舞台設定を作り上げました。
屋根、天井、柱、壁、床を備えた、ちゃんとした室内であることがわかるように描かれています。室内のようすがよく見えるように、柱と柱の間にあるはずの壁面は、取り除かれています。出入口はなく、王冠をかぶった擬人像の姿も見られません。シントロノンを想起させる座席もなくなっているために、使徒たちがいる場所は、聖堂のアプシスというよりは、集会所のように見えます。
そこに、使徒たちが輪になって座っています。後ろ姿の人の光背は、やや不自然かもしれません。後頭部がこちら側に向けられていて、光背は、まるで顔面にはりついているかのように見えるからです。とはいえ、逆さまのU字型の長椅子からすべり落ちそうな描き方に比べれば、はるかに現実に近い描き方です。
これは、パドヴァにあるスクロヴェニ家礼拝堂の壁面に描かれたフレスコの一場面です。スクロヴェニ家礼拝堂は、長方形の平面図の上に建てられた、切妻屋根の建物です。ジョットの描く、聖霊降臨の建物とよく似ていますね。
つまり、礼拝堂の中に立って聖霊降臨の一場面を見ている人たちは、自分たちが今いる礼拝堂と同じような形の建物の中に、使徒たちが集まっているようすを見ている、ということになります。ジョットの描き方は、何よりも見ている人が感じるであろう臨場感(自分の目の前で、今まさにそのできごとが起きているかのように見えること)に、重きをおいているということです。
聖霊降臨という一つのできごとを表現するにあたって、よりわかりやすいのは、ジョットのような描き方であるかもしれません。しかし、イコンはジョットのような舞台設定をせずに、あえて不自然なシントロノンを描き続けました。
それはなぜでしょうか。ここが使徒たちの出発点であったことを伝え、聖堂の中(光)と外(闇)の対比を伝えるために、シントロノンを描き続ける必要があったのではないかと思います。
ところで、ドイツ語で牡丹のことを「聖霊降臨の薔薇」Pfingstroseと呼びます。ちょうど、この時期に咲くからです。牡丹の花びらは、使徒たちの頭の上に降った、炎の舌のような聖霊の形を思わせるものだったのかもしれません。
(瀧口 美香)