このイコンには、聖エカテリニと聖母が描かれています。そして、聖母の足元にモーセの姿が小さく二回出てきます。聖母のマフォリオンは、細くて赤い枝のようなもので覆われています。赤い珊瑚かワカメのようにも見えますが、これは、モーセが神の山ホレブで見た、燃え尽きることのない柴を表すものです。
このイコンには、疑問に思われることがいくつかあります。
たとえば、祭壇画の制作を依頼した寄進者が、その祭壇画の中に、聖人像とともに小さく描かれる例はありますが、モーセは寄進者ではありません。モーセがサンダルを脱ぐところや、燃える柴を見上げているところを見れば、すぐにそれがシナイ山でのできごとであるとわかりますから、小さく描かれたモーセは、ここがシナイであることを示す、一種の記号のようなものだと思います。イコンの中心は、聖母とエカテリニなので、モーセは二人よりも小さく描かれているということです。
燃える柴に覆われる聖母の図像は、神性の炎を擁するイエスを身に宿しても、焼かれてしまうことのなかった聖母の懐胎を表すものですが、ここでは柴の枝が、赤い筋状の炎と一体化しています。緑のリースのような柴と比べてみると、このイコンは、炎の方を強調しようとしていることがわかります。それではなぜ、緑の柴よりも赤い炎を強調したかったのでしょうか。
この問いは、エカテリニと聖母との間にどのようなつながりがあるのか、という問いにもかかわってきます。エカテリニと聖母とのつながりを表すのに、「炎」がキーワードになっているからです。
エカテリニという名前は、ギリシア語のカタロス (kathalos) から来ています。カタロスは、純粋な (pure) という意味の語です。純粋な (pure) は、ラテン語で purus です。一方、炎はギリシア語で pur です。つまり、エカテリニの名前の由来 (purus) と燃える柴の炎 (pur) は、語感がとてもよく似ているのです。あえて炎を強調する描き方をしたのは、pur と purus という対比によって、聖母とエカテリニのつながりを表そうとする工夫だったのかもしれません。
エカテリニは、ある時幼子イエスと聖母の幻視を見たと伝えられます。そして、イエスから指輪を渡されたというのです!このできごとは、エカテリニとキリストの神秘の結婚として語り継がれました。エカテリニはキリストとの神秘の結婚を貫き、数多くの求婚者(その中には皇帝も含まれていました)をすべて拒んで、殉教の死を遂げました。
エカテリニの指輪の幻視は、もしかすると金環日食のことだったのではないかと思います。月と太陽が完全に重なり合い、暗い月の周囲にわずかにはみ出す太陽が、細い金の輪のように見えるからです。
キリストの手から渡された指輪は、燃える太陽のようであったかもしれず、それを受け取ったエカテリニの手が焼かれることがなかったとすれば、ここにも(神性の炎を身に宿してなお燃えることのなかった)聖母とエカテリニとのつながりを見つけ出すことができるかもしれません。
(瀧口 美香)