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キリスト教の葬儀とは?

司祭 博士 ジェームズ・ホーキー(ウェストミンスター・アビー 参事神学者)

キリスト教の葬儀は、第一義的には礼拝行為であり、その中で家族や友人、他の礼拝者は、亡くなった人を神の愛の慈しみとみ守りに委ねるのです。葬儀の中心は、イエス・キリストの死と復活を通して、クリスチャンである一人ひとりがキリストの復活した命を分かち合うことができるという信仰です。クリスチャンの旅は洗礼に始まり、死において地上での集大成を迎えます。死に対するキリストの勝利は、しばしば棺の横や近くに置かれる復活のろうそく(パスカル・キャンドル)によって表現されます。

葬儀はまた、悼みの時でもあり、私たちが感じている喪失感の深さを意識的に確認するものでもあります。私たちがある人の人生を振り返るとき、その人の賜物、資質、才能、愛と奉仕の力、そういったものを思うと、悲しみという生々しい痛みに襲われることもしばしばです。しかし、聖パウロがテサロニケの初代のクリスチャンたちを励ましたように、私たちは「希望を持たないほかの人々のように」悲しむのではなく(1テサロニケ 4:13)、むしろキリストの復活を希望として生きるべきなのです。キリスト教の葬儀の中心には、いのちに対する真の感謝の気持ちが強くあり、一人一人の人間を貴重でかけがえのない存在としている多様な賜物のゆえに、神に感謝を捧げます。

感謝の祈りとともに、キリスト教の葬儀ではしばしば、赦しのための祈りが捧げられます。亡くなった人への赦しと、時には今なお生きている人への赦しを祈ります。私たちは人間であるがゆえに、赦しと和解を必要とし、キリストへの信仰によって新たにされることを必要としているのです。

葬儀の終わりには、亡くなった人を神の慈しみに委ね、永遠の安息と平安という賜物が与えられるように祈ります。死によって命は終わるのではなく、変えられるのだとクリスチャンは信じています。それは、亡くなった人が、キリストのうちに安らかに憩い、神とひとつに結ばれて、その裁きの愛の慈しみ、完全な贖いを知るようになるという信仰からです。クリスチャンにとって葬儀は、自らの信仰と信頼を新たにする機会でもあり、死が終わりではないこと、聖徒の交わり、罪の赦し、死者の復活、キリストの新しい創造における永遠の命、これらを信じる者として生きることができるよう祈るのです。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ 3:16)

(翻訳:市原信太郎)

英国聖公会 ウェストミンスター・アビー Webサイトの記事を、著者の許可を得て翻訳し掲載します。)

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