(本稿は、2021年3月13日に城南グループ大斎節プログラムとして行われた講演の記録を編集したものである。)
目 次
最初に、『聖書協会共同訳』が元とした翻訳理論について、お話ししたいと思います。
基となる翻訳理論は「スコポス理論」としていますが、「スコポス」という言葉はギリシャ語で「目標」を意味します。翻訳理論では、このスコポスというのは対象となる読者、それと使用の目的あるいは機能を表します。『聖書協会共同訳』は、このスコポスを「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指す」こととしています。
聖書翻訳にはいくつかの翻訳理論があります。まず逐語訳(formal correspondence)は、できるだけ原語の言葉を生かして訳していくという翻訳理論です。そしてもう一つは動的等価理論(dynamic-equivalence Bible translation theory)というもので、ある文章の内容を別の言語で、等価で表現することを目指すという理論です。これは、「元の単語が何であったかは消えていってしまうことがあるが、その単語が持っている意味を表す」という翻訳理論です。
逐語訳がよいのか、あるいは動的等価理論がよいのか、ということが、翻訳者の間でしばしば議論されます。けれどもスコポス理論では、誰がこれを読むのか、その朗読を聴くのか、そしてこれは何のために翻訳されるのか、というその目標を定めておけば、どの理論を選ぶのかも決まってくるということで、ここでは逐語訳がよい、ここでは動的等価理論がよい、というように揺れ動くことがなくなるということが、スコポス理論の利点になります。
『聖書協会共同訳』は、「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語を目指す」ということが目標です。このひとつの実例として、単語の訳の問題になりますが、詩編第7編10節をどのように訳したのかということを、『口語訳』、『新共同訳』、『聖書協会共同訳』を挙げて比べてみたいと思います。
まず『口語訳』は「どうか悪しき者(ラシャ ※原語であるヘブライ語の言葉)の悪を断ち、正しき者(ツァディク)を堅く立たせてください」と訳しました。これを『新共同訳』は、「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし/あなたに従う者を固く立たせてください」と訳しました。
今回、2018年に出版された『聖書協会共同訳』の訳は、「悪しき者の悪を絶ち/正しき者を堅く立たせてください。」です。『口語訳』と同じように、「ラシャ」を「悪しき者」、それから「ツァディク」を「正しき者」と訳します。
『新共同訳』聖書には、「悪しき者」「正しき者」という言葉がありません。「悪しき者(ラシャ)」の部分を「あなたに逆らう者」と訳します。それから「正しき者」、これを「あなたに従う者」と訳しています。『新共同訳』は、単語の意味をより分かりやすく伝えることを目指していました。つまり、動的等価理論を取り、意味のわかる訳ということで、「悪しき者」を「あなたに逆らう者」と説明的な形で訳しているわけです。しかし実は、『新共同訳』聖書の翻訳作業が進んで行く中で方向転換することになり、逐語訳へと転換していくことになるのですが、ここはこの動的等価理論に従って訳した言葉が残っている部分です。
それに対して、今回の『聖書協会共同訳』は、その「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳」を目指すという目標から、できるだけ朗読にふさわしい、簡潔で締まった訳文を目指したその結果、『口語訳』と同様の逐語訳を採り、「悪しき者」と訳しています。同じように「正しき者」も、『新共同訳』の「あなたに従う者」ではなく、『口語訳』の「正しき者」を採っています。結果的に、『口語訳』の訳語が復活するということになりました。
このように比較して見ていくと、『聖書協会共同訳』は全般的に『口語訳』の訳に戻っているという印象を持たれる方が多いのではないかと思います。それは、できるだけ言葉を簡潔に、そして礼拝での朗読にふさわしい訳語にしたいという目標が反映された結果です。
『聖書協会共同訳』は、こういうスコポス、目標を持って訳されてきたわけです。
次に、翻訳がなぜ繰り返されるのかということについてお話ししたいと思います。
翻訳が繰り返されていくその理由は、まず底本が改訂されるということです。底本というのは、翻訳をするときに元にする、その原本です。例えば日本聖書協会が使ったのは、UBS(United Bible Societies、聖書協会世界連盟)のテキストですけれども、この底本が改訂されていきます。それによって、訳し直しをしなければいけないということが起こります。
それから、聖書学や翻訳学などが進んでいった結果、以前の訳を見直さなければいけないということも起こります。また、言語や社会の変化によっても、翻訳は変わっていくということがありますが、『聖書協会共同訳』の場合には、動的等価理論に従って訳された『新共同訳』聖書の見直しの要望が多くの教会から寄せられたということが大きな要因となって、新しい翻訳事業を進めることになりました。
聖書協会では、ほぼ30年ごとに新しい翻訳聖書を出しています。『口語訳』は1955年です。続く『共同訳』は新約聖書だけのもので、1978年に出ています。この時に旧約聖書の翻訳が終わっていなかったために、新約聖書だけが出版されました。後に、旧約聖書、旧約聖書続編、新約聖書を合わせた『新共同訳』聖書が、1987年に出版されました。そして今度の『聖書協会共同訳』が2018年。ほぼ30年ごとに翻訳が行われています。
次に、『口語訳』『新共同訳』『聖書協会共同訳』の翻訳がどのように変化をしているかということを見たいと思います。
マタイによる福音書の21章28節から30節の部分です。それぞれの翻訳は、以下のとおりです。
兄について(下線部分)、『口語訳』では、まず父は兄の所へ行って、ぶどう園へ行って働いてくれと頼みます。すると彼(兄)は、「『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった」とあります。この部分が『新共同訳』では、「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた」と全く逆になります。そして弟のところ(下線点線部分)ですが、『口語訳』では「弟のところにきて同じように言った。」ぶどう園で働いてくれ、と父が弟に言ったわけです。そうすると、その弟は「『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた」となっています。
このように『口語訳』では、兄は行くと言ったけれど行かなかった、弟はいやだと答えたが出かけた、となります。
これが『新共同訳』聖書ですと、「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった」となります。
そして『聖書協会共同訳』はどうなっているかというと、『新共同訳』と同じです。「兄は『いやです』と答えたが、あとで考え直して出かけた。弟は『はい、お父さん』と答えたが、出かけなかった。」となります。
このように、『口語訳』と、『新共同訳』『聖書協会共同訳』では、兄の答えと行動、弟の答えと行動が全く逆になります。
なぜ逆になるのかということですが、その理由は『口語訳』が底本とした写本が違うということです。マタイの21章のこの部分は、どの写本がオリジナル、原本に近いのかということがさかんに議論されている箇所です。
この原本・写本ということを簡単にお話ししておきます。これはマタイによる福音書ですが、マタイが書いた原本というのは存在せず、マタイが書いたものを書き写した写本が残っています。その写本が沢山あり、写本による違いがあるということです。多くの場合は、信頼度の高い写本というものがあって、その写本の読みが校訂文としてまとめられていくわけです。けれども、この箇所に関してはその写本の読みが様々に分かれていて、例えばUBSのテキストでは、この箇所の信頼度(写本から定める本文の確かさ)はかなり低いものになっています。
『聖書協会共同訳』では、『口語訳』が採った訳文が「異読」として、注の部分に載せられています。ですので、『口語訳』はどう訳したのかということを、注を見ると読むことができます。
この『口語訳』の訳文についてですが、普通に考えると、まず父がぶどう園で働いてほしいと思って兄の所へ行き、兄は「参ります」と言ったけれど行かなかった。兄が仕事をしなかったので、今度は弟に頼んだところ、弟は「いやです」とは言ったけれど出かけた。こういう流れだと筋が通り、話としてわかります。しかし、話として分かりやすいというのは、後から書き直された可能性が高いということにもなります。写本から本文を定める際には、読みにくい、分かりにくいものほどオリジナル、原本に近いと判断するという原則があります。というのは、私たちは今印刷された聖書を読むということができますが、初めの頃は朗読される聖書を聴くというものだったわけです。その際に、「聞いて分かるかどうか」ということを常に心に留めながら、朗読する人が補足をしてしまう、説明してしまうというようなことがしばしば行われ、そういった変更が欄外に書き込まれているような写本もあります。
このように、わざわざ後から分かりにくく書き換えることはあり得ず、書き換えるなら分かりやすくなるように書き換えるはずだ、という判断が成り立ちます。ですので、読みにくい、分かりにくいものほど、原本に近いという原則を取ります。
『新共同訳』『聖書協会共同訳』の本文は、『口語訳』と反対です。兄は「いやです」と言ったが出かけたのなら、もうそれ以上働き手はいらないのではないか。このように考えるとすると、『新共同訳』や『聖書協会共同訳』の方が読みにくいということになります。『新共同訳』『聖書協会共同訳』が底本としたテキストでは、このような読み方を取ったということで、『口語訳』とは訳が変わっていったということになります。これが翻訳の違いが出てくるひとつの原因で、訳文の違いはその底本にした写本の違いがあるということです。
次に、コリントの信徒への手紙 一、7章21節です。これも内容が全く逆になります。
まず『口語訳』は、「もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい。」むしろ自由になりなさい、と訳しています。
訳されてからすでに33年になる『新共同訳』聖書では、「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」です。『口語訳』が「むしろ自由になりなさい」と訳すところを、「むしろそのままでいなさい」、つまり奴隷のままでいなさい、と訳しています。
そして、今回の2018年の『聖書協会共同訳』も、「自由の身になれるとしても、そのままでいなさい」としていて、『新共同訳』と同じです。
なぜこういうふうに全く逆の訳になるのか、という理由ですが、それは直訳をすると分かります。
直訳は「むしろ 用いなさい」という文章で、この文章には目的語がありません。目的語として「自由」を補えば、『口語訳』のようになります。しかし、「奴隷の身分」という言葉を補えば、『新共同訳』『聖書協会共同訳』のようになる、ということです。
パウロの書いた手紙がとても厄介で、面倒を起こすのは、この箇所のように言葉を省略することが多いということがあります。おそらくパウロの手紙をよく読んでいた人は、パウロが何を言おうとしているかも分かっていたということなのだろうと思います。だから、わざわざ言わなくてもわかるはずということなのでしょう。ですので、パウロはここに目的語を置いていないのですね。しかし、後の世代の私たちは、何を言おうとしたのだろうか、ここの意味は何だろうかということで、いろいろな可能性を考えます。
その中で「自由」という言葉を補う解釈は、動詞の形に注目をしています。この動詞は「用いる」という語の命令形ですが、これが命令法のアオリスト形という形で、アオリスト形というのは、非継続、動作が継続しないという、そういう様態を表す形です。つまり、1回きりという動作・行動を表すということです。そうすると、これを訳しこめば「一回用いなさい」、つまり「そのチャンスを使って自由になれ」ということだという可能性が出てくるということです。「自由の身になりなさい」と訳す人たちは、この立場を取ります。
けれども、その直前の文を見ると、「召されたときに奴隷であっても、そのことを気にしてはいけません」と言っています。さらに文脈を広げていっても、パウロはここで、「奴隷の身分であるということを気に留めてはいけない」ということを語っています。そういう文脈から判断すると、奴隷の身分である、奴隷であるということは、神に召されたその時の有様を受け止めてもらっている、という捉え方だと思います。そうであれば、ここは「奴隷の身分」というのを補うのが自然ではないだろうかという判断をすることになります。その結果、『口語訳』で「むしろ自由になりなさい」と訳しているところが、『新共同訳』では「むしろそのままでいなさい」、『聖書協会共同訳』では「むしろ」を取って「そのままでいなさい」、というように訳が分かれたということです。
この問題に関しては、この第一コリント7章だけでなく、パウロという人がどのようなことを語っているのかということ、パウロの手紙全体を通してパウロが語ろうとしたこと、伝えようとしたことは何なのかということをしっかりと踏まえて、その上で解釈するということも必要になり、聖書学はそのような作業を行っているわけです。
先ほどのコリント第一の手紙7章21節では、『聖書協会共同訳』は『新共同訳』と同じ立場を取っていますが、先にお話ししたとおり、今回の『聖書協会共同訳』事業を進める一つの要因になったのは、教会が『新共同訳』聖書の見直しを要請したということです。この見直しは『新共同訳』聖書の翻訳理論が変更されたことにより、出版前から行われており、その際に問題になった箇所の一つが、次のマタイ5章3節です。
『口語訳』は「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と訳しました。これを『共同訳』(先ほどお話ししたように、新約聖書だけが1978年に出版されたもの)では、「ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから」と訳し、これが実は大変な議論を呼ぶことになりました。そして、この訳の見直しが要請されたわけです。
この『新約聖書 共同訳』は、動的等価理論に基づいています。ある文章の内容を、別の言語で等価で表現するというのが動的等価理論です。別の言語ですから、ここには「貧しい人」という言葉はもう使われていません。「意味の分かる訳」というのが、動的等価理論の目指す訳です。
『新約聖書 共同訳』は、この動的等価理論に基づいて訳されたもので、「ただ神により頼む人々」と訳していますが、『口語訳』、それから『新共同訳』『聖書協会共同訳』は逐語訳を取っています。この『共同訳』、新約聖書だけを出版した78年のこの訳は、『新共同訳』として旧約・旧約続編・新約がまとめられて出版された時に、「心の貧しい人々」に戻されました。そして今回の『聖書協会共同訳』も同様に訳しています。
少し余談になりますが、注意深く見ていただくと、『口語訳』で「天国」と訳しているところは、『共同訳』『新共同訳』『聖書協会共同訳』共に「天の国」と訳します。この箇所を訳した方々に詳しく聞いたわけではないので、私の推測ですが、おそらく「天国」と言うと、私たち日本人は死後行くところというイメージを抱いてしまうということがあるからだと思います。マタイ福音書は「天の国」という言い方をしますが、他の福音書ですと「神の国」と言われているその表現をマタイは使わずに、「天の国」と表しているのですね。むしろ、それは死んでから行くところではなくて、まさにイエスが宣教した神の国であり、それは死後行くところというイメージの「天国」という言葉でとらえてしまってはいけないものだ、ということがあるからではないかと思います。
本題の、「心の貧しい人」なのか、「ただ神により頼む人」なのか、という問題に戻りますが、『共同訳』は、動的等価理論を用い、意味の分かる翻訳を目指した翻訳です。一方では原語が何であったか分からなくなってしまう可能性もある理論を取ったということですけれども、教会や聖書を知らない人たちに、この「心の貧しい人々」とはどのような人を指しているのかということ、その意味を示そうとしたのが『新約聖書 共同訳』の目的だったわけです。そこで「これは、『ただ神により頼む人々』という意味です」というようにここを訳した、ということなのです。
この箇所について、個人的に伺ったお話があります。実は私は大学院生の時のアルバイトで、聖書協会の翻訳部で『新共同訳』の最終の編集作業に関わっていたのですが、その時の編集委員のお一人にフランシスコ会の堀田雄康神父様(残念ながら、すでにお亡くなりになりました)がいらして、こうおっしゃっていました。「教会に来たことのない人、聖書を読んだことのない人が本屋さんに行って何か本を買おうとした時、例えば『心の豊かな人になろう』という本だったら手に取るかもしれないけれども、『心の貧しい人になろう』と言われてその本を買うだろうか。まあ、『なんだこれ?』と思って買う人もいるかもしれないけれども、この『心の貧しい人』という日本語が持っているニュアンスが、やはり偏屈とか卑屈とか、何かそういうマイナスのイメージを持っている。一般の人にはそういうふうに受け止められてしまうのではないか。」そこで、『共同訳』の翻訳は動的等価理論を元に始められ、このマタイの5章3節は「ただ神により頼む人々」というふうに訳したのですが、しかしこの訳が教会には受け入れられない、ということが起こったということです。
ではこの訳はなぜ可能なのか、ということですが、直訳を見ていきます。
原文: | マカリオイ | ホイ | プトーコイ | トー | プネウマティ |
直訳: | 幸い | (冠詞) | 貧しい人々は | (冠詞) | 霊に |
「幸い」は、原形が「マカリオス」という祝福の言葉です。「ホイ プトーコイ」は「貧しい人々は」。「トー プネウマティ」、ここでは「霊に」と訳しましたが、この「プネウマティ」という与格形(ギリシャ語の変化形の一つ)もいろいろと訳すことができるので、大変難しい箇所です。
ただ、ここに使われている言葉でまず注目したいのは、「心」というのではなく「プネウマ」という単語、「聖霊」をも表す「霊」という言葉がここに使われているということです。この「プネウマ」という言葉は「神の霊」にもとることができますし、「人の霊」にもとることができます。
この箇所の少し後、8節には「心の清い人」という言葉がありますが、そこでは確かに「心」と訳すことのできる単語が使われています。しかしここでは、「霊」という単語が用いられています。これももちろん、「人の霊」ととれば、人の精神、心という意味にもなるわけですけれども、元々は「霊」、「神の霊」にもとれるし「人の霊」にもとれる言葉が使われています。
それから次に、「貧しい人」という言葉です。ギリシャ語で貧しい人を意味する、単数形で「プトーコス」というこの言葉の語源は、「縮こまる」とか「うずくまる」という動詞です。そしてこのプトーコスという言葉の背景には、ヘブライ語のアーナー、アーナーヴとかアーニーという言葉があります。
新約聖書のギリシャ語は、単にギリシャ語の意味だけを考えればよいというものでもありません。旧約聖書をギリシャ語に訳した時(七十人訳と呼ばれるギリシャ語訳)、ヘブライ語の単語にギリシャ語を当てはめていったわけですね。ギリシャ語のプトーコスの背景として、その翻訳の時に旧約聖書のどのようなヘブライ語にギリシャ語のプトーコスが使われたのかということを調べていくということも、その言葉の意味を知る上でとても大切になります。
そこで、このヘブライ語のアーナーというのは元々どういう意味かというと、「背を曲げている」という意味合いです。この背を曲げているというのは、何か重荷を背負わされて背を曲げるわけですけれども、経済的な貧しさを背負っている、あるいは宗教的な迫害、政治的な迫害によって苦しめられ、圧迫を受けて背を曲げている、旧約聖書ではそういう人たちが「貧しい人」と呼ばれています。そして、圧迫されても、背を曲げて崩れ落ちずに耐えている。耐えることができるのはなぜかと言えば、苦しい、助けてほしいというその苦しみの声、叫びを神が聞き届け、そして神が救い出してくれると信じているからです。だから、崩れ落ちずに背を曲げて耐え続けることができるということなのだと思います。従って、この「貧しい人」というのは、圧迫されても神を支えとして生きる人、神を信じる者、敬虔な者、そういう意味合いを持つことになっていきます。
『新約聖書 共同訳』が、この「貧しい人」という単語を使わずに、「ただ神により頼む人」と訳したのは、このようなヘブライ語に遡っていった時の「貧しい人」の意味、あるいはギリシャ語でも、プトーコスという言葉には縮こまる、うずくまるという意味がある、ということで、聖書の「貧しい人」という語はそのような意味合いで使われており、それはどういう人なのか、ということを表す訳語として、「ただ神により頼む人」という訳語を用いた、ということだと思います。
そしてここには、この「霊」という言葉ももう現れてこなくなるわけです。「ただ神により頼む人」という中に、訳し込まれている。一つ一つの単語は消えていってしまって、その意味内容を表す訳文に変わっていく。これが動的等価理論と呼ばれる翻訳理論です。ですので、「霊」という言葉はどこにいってしまったのかというようなことが問題になりますし、先ほど言いましたように、これが「神の霊」なのか「人の霊」なのかということも、解釈の上で非常に難しい。そのことをここでお話しするのには、少し時間が足りないのですけれども、おそらくマタイがここに「霊」という言葉を加えたのは、「貧しい人」が経済的な貧しさのことだけではないのだ、ということを示したかったからではないだろうか、というふうに、私自身は思っています。
ルカ福音書にもこの祝福の言葉、「貧しい人は幸い」という言葉がある(ルカ 6:20)わけですけれども、おそらくルカが伝えているその祝福の言葉のほうが、元々イエスの語った言葉に近いものだと考えられます。先ほどの写本の問題と同じで、何かが加わるということは、後から行われていくはずだということですね。イエスがもともと「霊に貧しい人々」と言っていたとしたら、ルカがイエスの言葉を削除するはずはない。ですから、もともとイエスが言った言葉は、単に「貧しい人々」だったのでしょう。
しかし、その「貧しい人々」の意味合いとして、ただ単に経済的な貧しさを言っているのではない、もっともっと知ってほしい意味合いがあるということを示すために、マタイはこの「霊に」という言葉を加えたのではないか、というふうに思っています。
そして、最後にヨハネの1章5節です。
「理解しなかった」という訳と「勝たなかった」という訳です。『口語訳』は、「光はやみの中に輝いている」、そして「闇はこれに勝たなかった」と訳しました。これを『新共同訳』は、「理解しなかった」と訳しました。『聖書協会共同訳』は、「闇は光に勝たなかった」というように、結果的には『口語訳』に戻す訳になっています。
「勝たなかった」と『口語訳』が訳す単語を、『新共同訳』は「理解しなかった」と訳したのですが、これは動的等価理論というようなことではなく、そのどちらにもとれるということで、「勝たなかった」も「理解しなかった」も、どちらの訳も可能です。
直訳は、「闇は これを つかまなかった」となります。「カタランバノー」という動詞は、「掴む」「しっかりと握る、捉える」というのが元々の意味ですので、「把握する」「理解する」の意味にもなりますし、「掴む」というところから、「打ち負かす」とか「抑圧する」という意味にもなっていきます。このように、原語の持っている意味合いそのものから、このどちらの訳も可能だということになります。
『聖書協会共同訳』では、注に直訳として「光を捕らえなかった」と載せ、別訳としてこの『新共同訳』の「光を理解しなかった」という訳が載っています。ですので、直訳は何だったのか、なぜ訳が変わったのか、ということを考えるときの参考として注を使っていただくことができると思います。
このヨハネ1章1節から5節は、ヨハネの神学的プロローグと呼ばれる部分ですけれども、この箇所は創世記の天地創造を踏まえて、第2の創造を述べようとしていると言われています。「闇は光に勝たなかった」というこの訳文は、天地創造の時に「光あれ」という神の言葉によって光があったという、光の創造によって闇の中に光が燦然と輝くということをイメージし、第2の創造を述べようとしているヨハネもそれを伝えようとしているのではないかというところで、この天地創造のイメージを表そうとしているということなのかもしれません。
しかし、この「理解しない」ということも、ヨハネの重要なテーマの一つです。この世というのは、イエスを知ることができない。そしてイエスが遣わされたのは、この世をこの世でなくすること、この世をイエスと神を知るものに変えていくということのためで、それがイエスの使命なわけですけれども、しかしこの世はイエスを知ることができない、理解できない。イエスがそういう存在であったということも、ヨハネでは述べられているわけです。そのことを、ヨハネの重要なテーマとして考え合わせていけば、ここを「理解しなかった」と読むことも大切だと思います。
そしてこれも余談ですが、よく見ていただくと、『新共同訳』は「暗闇」、『口語訳』はひらがなの「やみ」と訳したこの言葉を、『聖書協会共同訳』は「闇」と訳しました。このあたりの表記の仕方は、おそらく今回の『聖書協会共同訳』の日本語担当の先生方が苦心されたところだと思います。『新共同訳』の時には、日本語担当の先生方は本当にわずかでしたが、今回の翻訳では、最初から日本語担当の先生が原語担当とチームを作って訳していくという方法を取りました。最初はもちろん、原語担当が原文を訳してそれが第一稿となり、それに日本語担当の先生が目を通して第二稿が出来上がり、そして日本語担当と原語担当が一緒になって第三稿を作る、という作業をしていったわけなのですけれども、この「礼拝にふさわしい簡潔な訳文」というところで、おそらく「暗闇」よりも「闇」という言葉のリズムというようなことを、日本語担当の先生方は苦心されていったのだと思います。
最後にまとめていきたいと思います。
なぜ翻訳が繰り返されるのか、訳文の違いはどこから来るのかということで、四つの箇所を見てきました。
ひとつには底本の違い、写本の違いということがありました。その一方で、ある部分に略されている言葉があるとしたら、そこにどの言葉を補うのかということや、ある言葉がひとつの単語では訳しきれない広がりを持っているということなどを考えていくと、私たちが手にする翻訳というのは、様々な可能性がある中でこれを選んだ、という一つの可能性を示しているに過ぎないということもあります。その一つの可能性が選ばれる時には、いくつかの可能性が脇へ置かれていった、ということでもあります。その脇へ置かれていった翻訳の可能性にも注目するということは、理解を深める上でとても大切であると思います。
そして、翻訳の際には整えられた訳文、美しい日本語を求められます。例えば、最後の例のヨハネ1章5節は「つかまなかった」と訳していいのではないか、と私は思いますが、それでは翻訳にはならないということで、もっと綺麗な日本語に訳すべきだ、翻訳するとはそういうことだ、となると、そこに表されなかった原文の意味を知る機会が消えていってしまうということがあります。
このヨハネ1章5節では、「把握する・理解する」、そして「打ち負かす・勝つ」という、この両方の意味が響いているのだということを知るのは、ヨハネを理解する上でもとても大切で、ヨハネの理解を深めることになると思います。そして、様々な訳の可能性を知るということは聖書を理解する時の助けになりますので、『聖書協会共同訳』は初めて注を付けたわけです。別訳・直訳・異読などを注に載せていますが、それを用いることによって、その解釈の広がりを知ることが可能になります。
そして、『新約聖書 共同訳』がマタイ5章3節を「ただ神により頼む人々は、幸いだ」と訳したことが、ある意味教会に衝撃を与え、そしてそれを見直すことが求められる、ということが起きたわけですけれども、『新約聖書 共同訳』はむしろ教会の外というか、教会に来たことのない人たちに向けて分かりやすい訳ということを目指した翻訳だったわけです。一方で、今度の『聖書協会共同訳』は、むしろ礼拝の中で用いる翻訳、聖書ということを目指して、格調の高い日本語ということを掲げ、逐語訳という訳し方に沿って、ここを「心の貧しい人々」と訳したわけです。
この箇所に関して一つ思い起こしたいのが、「やもめの献金」というルカ福音書21章の出来事です。イエスが、生活の苦しい一人のやもめがレプトン銅貨2枚を入れる様子を見て、「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は乏しい中から持っている生活費を全部入れた」と語っています。このやもめは、レプトン銅貨(レプトン銅貨は最小の銅貨で、労働者の1日分の賃金である1デナリオンの128分の1の価値)を2枚入れました。ほんのわずかの献金をしたわけですけれども、しかし誰よりもたくさん入れたというふうにイエスは語るわけです。生活費を全部捧げたということは、このやもめはこの先も生きてゆく手だてがない。そうすると、ここではこのやもめが自分の命を神に託したと言おうとしているのかもしれない、というようなことを私たちは考えるわけです。
ここで「生活費」と訳されているのは「ビオス」という言葉ですが、これは「人生・生涯・一生・生活」を意味する言葉です。この箇所はレプトン銅貨を言い換えているわけですから、「生活費」とするのが翻訳としては分かりやすいのかもしれませんが、しかしむしろ、この人は乏しい中から人生を入れた、人生全部を入れた、と訳した方が、生活の苦しい貧しいやもめがどのような人であったかということが私たちに伝わってくるのではないかと思います。そして例えば、これが「ビオス」という単語であるということを知らなくても、そしてこれが「人生」「一生」という意味だということを知らなくても、持っているものを全部捧げたのであれば、このやもめはこの先どうするのだろうと思うわけです。そして、このやもめは「もう全てお任せします」と言って神に全てを任せ、持っているものを全部入れたのだというように私たちは読むことで、この「貧しさ」とは何なのか、「貧しい人」とはどんな人なのかを知ることができるわけですけれども、聖書を読んだことのない人がそのような読み方をすることはできないでしょう。とすると、「貧しい人」とはお金がない人、貧乏人としか受け取れない、ということになってしまうと思います。『新約聖書 共同訳』は、聖書を読んだことのない人、教会に来たことのない人にも、「貧しい人」の意味を伝えるために、「ただ神により頼む人」という訳を用いた、ということです。
そして今回の『聖書協会共同訳』は、礼拝にふさわしい格調高い日本語ということで、そのスコポスにふさわしい翻訳理論は何かということから、逐語訳を取って訳された翻訳です。ということは、私たちは説明された翻訳ではなく、むしろ逐語訳、原文の言語の意味そのままの言葉を、この翻訳では読むことになります。それは、意味をどのように理解するかということが私たちに任されているということだとも言えます。つまり、礼拝にふさわしい翻訳ということは、私たちが礼拝の中でこの聖書をよく読み、そして聖書の言葉を繰り返し読み続けて行く中で、果たしてこの単語の意味は何だろうかということを知る努力を続けていくことが求められているということだと思います。ですから、礼拝にふさわしい美しい日本語ということは、ある意味私たちにも課題が課せられているということです。その単語、言葉の意味は何だろうかということを知る努力を続けてください、というのが、今回の『聖書協会共同訳』が目指し求めている――私達に対しても、読者に対しても――ことだと思います。
日本聖公会渋谷聖公会聖ミカエル教会信徒(信徒奉事者)
「聖書協会共同訳」翻訳者―新約担当
聖公会神学院元非常勤講師
立教女学院短期大学元非常勤講師