ビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスの近郊に、泉の湧き出る緑豊かな土地がありました。泉のほとりにある小さな祠は、聖母にささげられたものでした。
いつしかその場所は忘れ去られ、木々が繁ってあたりを覆い、泥がたまって泉の水は臭いを放つようになりました。
5世紀ごろのこと、レオ・マルセオスという一人の兵士が、泉の近くで道に迷っている盲目の人を見かけました。レオは、盲目の人を木陰に座らせ、水を飲ませてあげようと、辺りを見回して水を探しました。すると、声が聞こえたのです。
「水は、ここにある。」「この泉から泥をすくって、盲目の人の目に塗りなさい。そして、ここに聖堂を建てなさい。ここに来て祈る者たちの願いは、みな聞き届けられるだろう。」
その声に従って、レオが盲目の人の目に泥を塗ると、目が開かれて、その人は見えるようになりました。兵士だったレオは、後にビザンティン皇帝の座に上り詰め、ここに大きな聖堂を建設して、聖母にささげました。
病の人々が大勢、奇跡を求めてここを訪れました。泉の水によって病が癒されるばかりでなく、死者がよみがえるという奇跡が起こり、ここは「命を与える泉」と呼ばれるようになりました。
15世紀、オスマン帝国の侵略によってビザンティン帝国が滅ぼされると、聖堂は瓦礫と化し、泉もまたその下に埋もれてしまいました。やがて、小さな礼拝堂がここに再建されたのですが、それも間もなく破壊されました。以降、今日に至るまで再建と修復が重ねられ、泉の水は今なお涸れることなく湧き出し続けています。イスタンブール近郊に位置するこの場所は、現在バルクルと呼ばれています。この泉は、多くのイコンの題材になっています。
一つ目のイコンでは、聖母子がたらいのような円形の器の中に座り、たらいの胴部に設けられた、人面をかたどる飾りの口から、筋状の水が下の水槽に流れ落ちていくようすが描かれています。
二つ目のイコンでは、聖杯のような器に聖母子が座っています。水は弧を描いて水槽へと流れ落ち、その周りには、癒しを求める人々が集まっています。杖をついている人、顔を洗う人、水差しを持ち上げて、流れ落ちる水を貯めようとしている人。右はしに、口から緑の葉を吐き出している人がいます!これは、グリーンマンと呼ばれる図像に少し似ています(グリーンマンの多くは、顔全体が葉に覆われていますが)。グリーンマンは、再生を意味する古くからのシンボルなので、この人が今まさに、泉の水によって再生しつつあることが伝わってきます。
そもそも杯の中に人が座るなんて、実際にはありえないことだし、聖母の下半身はどこかに消えてしまっているし、そこから噴水のように水が流れ落ちていくようすも、奇妙としか言いようがありません。四角い水槽の周囲に、病の人々が奇跡の水を求めてやってくるという部分だけ、切り取って見れば、それほど不自然ではないかもしれませんが、聖母子と杯を、その上に組み合わせるという図像は、いったいどこから生まれたのでしょうか。聖母こそが命を与える水の水源であるということを、視覚的に表したかった、ということはよくわかるのですが。
杯のような器、その上に座る人、器から流れ出す水。実は、これと少し似ている図像が、ラヴェンナのモザイクにあるのです。
モザイクでは、天球の上にキリストが座り、天球の足元から、四つの川が流れ出ています。四つの川は、創世記に記されている、楽園の四つの川を表しています。
四つの川の水源がいったいどこにあるのか、創世記には書かれていません。しかし、モザイクは、キリストこそがその水源にいますことを示しているのだと思います。キリストの足の間を見ると、衣にアルファベットのZのような金の模様があります。これは、ギリシア語の Zoe(命)を表しているという説もあります。つまり、キリストは、命の水の源だということです。
命を与える泉のイコンを描こうとした画家が、楽園の四つの川の図像を見て、そこからインスピレーションを得て、杯の聖母と水槽を組み合わせる図像を作り出したのかもしれません。
楽園の川の水に、わたしたちが今、この手を浸すなどということは、不可能であるように思われます。しかし、実際に今も湧き出し続ける泉の水と、楽園の四つの川を重ねて表すことによって、この泉の水に触れる者は、楽園の水に触れることになるのだと、イコンは語っているのかもしれません。
(瀧口 美香)