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冥府降下

キリストの冥府降下

主の復活を表す図像といえば、勝利の旗(あるいは十字架)を手に石棺から立ち上がるキリストを、真っ先に思い浮かべると思います。しかし、それはカトリックの復活の図像です。復活を祝って正教会で掲げられるのは、冥府降下と呼ばれるイコンです。冥府降下の図像は、正典の四福音書ではなく外典(ニコデモの福音書)に基づいています。

ニコデモの福音書によれば、イエスは十字架上の死を経た後、冥府へと下って行きました。その時、冥府に雷のような声が響き渡り、冥府の王に扉を開くよう命じました。冥府の王が従わずにいると、扉は打ち壊され、暗闇が明るく照らし出されました。イエスはアダムの手を取って、冥府から天へと昇って行きました。冥府で苦しみうめいていた囚われの人々もまた、アダムとともに冥府から天へと昇って行ったのです。

このイコンに描かれた冥府は、岩山に囲まれており、洞窟のような場所を思わせます。イエスよりも先に死んだ旧約の正しい人々が、ここに囚われていたのです。冥府にくだってきたイエスは、マンドルラ(青色の楕円形)とともに描かれています。マンドルラは、頭の後ろに描かれる光背と同じように神の光を表すもので、イエスの全身を包み込んでいます。イエスは、アダムの腕をつかみ、片膝をついたアダムを石棺から引き上げています。イエスは冥府の扉を踏みつけ、その足元には鍵や留め金が散乱しています。アダムとエバの他に、王冠をかぶったダビデとソロモン、洗礼者ヨハネらの姿が見られます。

ここで、イエスが踏みつけている、冥府の扉に注目してみたいと思います。二枚の扉が重なり合って形づくる、Vのラインを上の方に向かって延長していくと、背景の切り立った崖につながっていきます。つまり、V字形によって示される深い地の裂け目のようなところを降って、イエスが冥府に舞い降りてきたことが示されています。白いヒマティオンが右上にはためき、イエスがここに降り立った瞬間を表しています。

コーラ修道院(イスタンブール)のフレスコ画

一方、フレスコの冥府降下を見てみると、冥府の扉は白ではなく、木製の扉のように見えます。冥府降下の図像でよく見かけるのは、こちらのような扉なのですが、それではなぜイコンの画家は、冥府の扉を真っ白に描いたのでしょうか。

イエスが病の人を癒した、数々の奇跡を思い出してください。イエスが病の人の手を取ってその人に触れると、その人は神の光を帯びて、それによって病が癒されたのかもしれないと思います。イエスの触れたものがみな、神の光を帯びるのだとすれば、冥府の扉もまたそれと同じように、神の光によって白く見えたとしても不思議ではありません。扉(入口)が光に包まれ、やがてあたり全体を覆っていた闇が、光の中へと飲み込まれていくのです!

それでは、次にフレスコの冥府降下を見てみましょう。登場人物、背景の切り立った崖、石棺などは、イコンとほぼ共通です。冥府の王が、扉の下敷きになっています。イエスは右手でアダムを、左手でエバの腕をつかんでいます。イエスは足を踏ん張っており、弥次郎兵衛のような立ち姿です。二人は、すごい勢いで石棺から引き上げられています。

イコンの方にちょっと立ち戻って見ると、イエスは一方の手に巻物を持っているので、アダムとエバの手を同時につかむことはできません。たいていの場合、冥府降下のイエスは、アトリビュート(イエスの属性や特質を表す持物のことで、巻物や十字架)を手にしています。しかし、フレスコの冥府降下では、アトリビュートを持たずに両手が空いているので、二人の手を同時につかむことができるのです。イエスのアトリビュートは、死に打ち克ったしるしとしての十字架や、神の知恵を表す巻物で、ともにイエス自身と切り離すことができないもののはずですが、ここではあえてそれらを手放し、代わりに二人の手を取っているということです。

イエスはほとんど力ずくで、土中に深くうずめられていた二人を、死の闇から引きはがし、立ち上がらせようとしています。二人のようすを見ると、かなり無理やりのようにも見えます。二人とも、自分の身に何が起きているのかわからずに、とまどっているような感じで、身体は振り飛ばされそうな勢いです(寝坊した子が、学校に遅れるからと言って、布団から引きずり出されているような感じ、あるいは、行きたくないと言って愚図る子を、強引に外に連れ出すような感じです)。

このフレスコを見ていると、「目覚めよ」というイエスの声が聞こえてくる気がします。目覚めよ、眠る者たちよ。それは、まさに復活の日にふさわしいメッセージです。

しかしイエスは、何も死者だけに向かって呼びかけているのではない、という気がするのです。この地上に今、生きているのに、その本質を埋もれさせたまま(眠らせたまま)日々を送っているわたしたちに向かって、イエスは「目覚めよ」と呼びかけている。目覚めて本来の自分、真の自分を生きよ。

その声を聞いてなお、ためらい、迷い、そこから出ることができずにいたとしても、イエスは一人ひとりの手を強くつかみ、向かうべき方へとわたしたちを立ち上がらせるのかもしれません。

(瀧口 美香)

使用画像:
Public Domain (Wikimediaより引用:“File:Unknown painter - Resurrection of Christ and the Harrowing of Hell - WGA23499.jpg”, 「ファイル:Chora Anastasis1.jpg」)
▼筆者:瀧口 美香(たきぐち・みか)
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