使徒聖ヨハネは、晩年エフェソで福音書を書き記したと伝えられています。一方、黙示録を著したのもまた、ヨハネという名前の人であったために、二人は同一人物であると考えられてきました。ヨハネは、ローマ皇帝によってパトモス島に島流しされ、そこで、この世の終わりに起こるであろう出来事の幻を見て、黙示録を書いたと伝えられます。
イコンを見ると、パトモス島を思わせる洞窟の中に、ヨハネと弟子のプロコロスが腰を下ろしています。ヨハネは振り返って、天からのことばにじっと耳を傾けています。ヨハネのてのひらは、神の手から注がれるメッセージを受け止めるかのように、上に向けられています。もう一方の手は、弟子のプロコロスの方に向けられ、聞き取った神のことばを書き取るよう、指示しています。プロコロスの手元をよく見ると、彼が今書き取っているのは黙示録ではなくて、福音書冒頭の一文です。
洞窟は、滑らかな表面にごつごつしたかたまりが突き出て、かなり奇妙な形です。洞窟の内部は、黒く塗りつぶされています。そしてこの暗闇は、あたりの静けさを暗示しているように見えます。洞窟の奥の暗がりが、雑音をすべて吸い込んでしまい、しんとした空気だけが、二人を取り巻いています。そして、物音ひとつ聞こえてくることがない、完全な沈黙の中に、初めて神の声が聞こえてきた、その瞬間を描いているのだと思います。
こころがざわざわと波立っている時、いくら神に呼びかけたところで、神の声は聞こえてこないでしょう。この洞窟の暗闇は、神の声が雑音にまみれてかき消されることなく、この耳にはっきりと聞こえるほどの深い静けさを、わたしたちに伝えているのだと思います。
ところで、17世紀のロシアで描かれたイコンに、唇に指を押し当てたヨハネを表しているものがあります。ヨハネは、天使を介して語られる神の声を、沈黙のうちに聞いているのです。一方、福音書に記されているように、ヨハネは、イエスから「雷の子」と呼ばれました。とどろく雷鳴は、沈黙からはほど遠いものであり、何だか矛盾しているようにも見えます。
しかし、ここで洞窟の暗闇にもう一度目を向けてみたいと思います。この暗闇は、神の手から注がれる、つき刺さるような青い筋と、洞窟をおおいつくす神の光を際立たせています。洞窟の暗がりの中で、ヨハネは雷に打たれた時のような、強烈な光によって全身を貫かれ、目の眩むような体験をしたのかもしれない、と想像します。
目の前の出来事に振り回されて右往左往している時には、神が明かされる真実を、この目でとらえることはできない。そうではなくて、目の前がまっさらな状態、それはいわば「目の沈黙」*とも呼びうるものだと思いますが、そのような時にこそ、初めて神の光が見えてくる。こうしてヨハネは、福音書の冒頭に「光は暗闇の中で輝いている」と書き記したのかもしれません。
(瀧口 美香)