これは、聖メナスのイコンです。メナスは、3世紀頃エジプトに生まれました。もともとローマ帝国の軍人だった人です。しかし、ローマ帝国がキリスト教に対する弾圧を強めるようになり、信仰を捨てるよう迫ったために、メナスは軍隊を離脱しました。そして、砂漠での隠遁生活を始めました。ある時、メナスはキリスト教徒であることを名乗り出たために捕らえられ、拷問を受けました。拷問されてもなお、メナスは信仰を捨てることを拒み、ついには首を斬られて殉教したのです。
メナスの遺体が埋葬された場所は、アブ・メナと呼ばれ、コプトの人々の聖地となって、多くの巡礼者たちが訪れました。コプトというのは、エジプトのキリスト教徒のことです。エジプトは、7世紀以降イスラム教徒の支配下に入り、多くのコプトが殉教しました。メナスの聖地アブ・メナもまた、イスラム教徒によって破壊されました。
イコンを見ると、聖メナスは、キリストの隣に立ち、キリストは右手をメナスの肩の上に置いています。メナスは、キリストと同時代を生きた人ではありませんから、二人が肩を並べて立つことはありえず、このような描き方は、言ってみればフィクションです。
イコンの背景は橙色とこげ茶で、夕焼けの空と、夕日が当たって橙色に染まるエジプトの砂丘を思わせます。エジプトの燃えるような夕日が、メナスの背後に沈んで、日が暮れていきます。
メナスは、大きく目を見開いて、いったい何を見ているのでしょうか。今、メナスが目の前に見ているのは、すぐ近くまで迫りくる夜の深い闇であるかもしれない、と思います。方角もわからず、目印になるものが一切見えない夜の砂漠を、果たして彼は歩き続けることができるのでしょうか。
たとえ闇しか見えていなかったとしても、彼は歩き続けるだろう、と思います。なぜなら、キリストが隣にいて、闇のその先にある道を彼に教えているからです。自分には見えていないけれども、隣にいるキリストは、はっきりと道を見ている。だとしたら、キリストの掌を肩に感じながら、歩いていこう。メナスはそう思っているような気がします。
逆に、この光景は沈みゆく夕日ではなくて、メナスの背後から日が昇り始めるところかもしれない、とも思います。闇の方だけを見て歩いていたメナスの背後から、光であるキリストがやってきて追いつき、彼の目の前の道を照らし始めた、ということです。
もしかしたら、その両方かもしれません。日が沈みゆくときも、再び昇るときも、メナスは歩き続けます。進みゆくその先が、たとえ殉教の死であったとしても。
(瀧口 美香)