日本聖公会東京教区 聖アンデレ主教座聖堂

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「小さな扉」を通って―すべてのものの中心へ

司祭 ジェームズ・ホーキー

2019年8月23日から30日まで、「世界改革派-世界聖公会国際対話」(International Reformed- Anglican Dialogue: IRAD)の第5回目となる国際委員会が、広島で開催されました。(会議のコミュニケはこちら
会期中の主日、25日には委員全員で広島復活教会の聖餐式に参加し、委員の一人であるジェームズ・ホーキー司祭(英国聖公会 ウェストミンスター・アビー参事神学者)が説教されました。この説教を和訳して掲載します。

日課
特祷

主よ、教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことができます。どうか絶えることのない助けをもって主の教会を清め守り、恵みと力によっていつまでも堅く保ってください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

説教

私たち人間が語るすべての偽りの中で、自分の力で何でもできるという神話と、他人に打ち勝つための競争というこの2つは、最も破壊的なものです。このどちらもが、創造された存在という私たちの最も根本的な事実をなきものとし、キリストにおいて、そして聖霊の力によって、私たちが召されている関係を真剣にとらえることを不可能にします。

共にキリストのからだに属する私たちは、お互いに、また他のすべての創造物と出会います。純粋で、過激なほどに素晴らしい贈り物として。そして、神の愛と特徴の表現として、わたしたちを神との関係の中に招き入れるものとして。すなわち、それは「コミュニオン」、交わりへと招き入れるのです。

キリストのからだのうちに共に住む家では、言葉や文化の壁は乗り越えられ、すべてを自分で何とかしようとすることや、他人を支配するために努力する必要から解放されます。なぜなら、私たちの尊厳は、私たちが神に喜ばれ、神に愛されている創造物であり、神の姿に、神の似姿に造られたものであり、東からも西からも、北からも南からも呼び出され、神の国に集められている、このような単純かつ根本的な事実のうちにまさに見出されるものだからです。

わたしたちが共に住むこの聖なる地においてこそ、私たちはこのユーカリストを祝い、共に養われるのです。ここで、私たちはキリスト者としての生活を喜びとします。それは賜物であり、招きであり、宝であり、召し出しでもあります。

今日の使徒書として聞いたヘブライ人への手紙の著者は、私たちの神を「焼き尽くす火」と記しています。想像してみてください。それはシオンの山に燃え上がる火、近づく人々を活気づけ、新しく変えていく火です。それによって、新たな創造のうちに、わたしたちは生きている神を知るのです。しかし、光と火とは、もちろんさまざまな意味を持つものです。

今日、みなさんを訪ねる光栄を得た私たちは、人類が他者に与えうる暴力の恐ろしさを悔やみ恐れつつ広島に来ています。原子爆弾によって引き起こされたのは、神への冒とくの行為、すべてを滅ぼし尽くす光と火です。私たちは巡礼者としてここに来ました。皆さんから学ぶため、今や聖なる地であるこの場所にあって、傷を負いながらもすべての人のために平和に責任を持とうとするこの共同体とのコミュニオンのため、そして人間の壊れやすさと美しさこそがすべての最も中心にある真実の一つであることを共に証しすると決意するためです。

私たちの世界で、自分の力で何でもできるという思いに駆られたり、他人に打ち勝とうとする誘惑に身をまかせたりするなら、最後には暴力と他者の絶滅という結末に至らざるを得なくなります。イザヤの時代のエルサレムにおいて人々を支配した「嘲る者」たちは、死との契約を結び、偽りと欺きに身を寄せました。しかし、復活のキリストの傷あるみ手によってキリスト者は一つとされたのです。だからこそ、私たちは今日、いのちとまこととの契約を新たにするのです。

ヘブライ人への手紙における「焼き尽くす火」という言葉が象徴する聖なるものとは、変わりやすいものです。わたしたちはいつも問われ続け、変わっていくようにと促され続けるのです。しかし、燃える火のように聖であるという神の性質は、決して私たちを滅ぼすものではなく、常に私たちを完成させ、わたしたちに変化をもたらすものです。

キリストが差し出す聖なるものとは、神ご自身が築き上げられるプロジェクトです。その中では、一人一人が自分の場所を見つけ、そして癒し、贖い、新たな約束の深みを開くまことの光を見出すことができます。それによって最初に促されるのは、まことの礼拝を献げること、すなわち、私たちにとって最も大切な目的を見出すことです。もろいものとして造られた私たち、キリストの生と死と復活を通して神との平和の関係に招かれている私たち、それを喜んで生きることです。そして互いに仕え合うように、和解の仲介者として全体の益のために働くように、忘れられ、疎外されている人々のうちにこそキリストを見るようにと促します。

私たちの世界に暴力がつづいていることや、キリストのからだであるはずの教会が未だに不一致に悩まされているのを見るとき、この福音のメッセージはあまりによいことすぎて、現実にはほど遠いと思うことがあるかもしれません。そして、たとえそれが現実のものであったとしたところで、こんなに騒がしく、皆が怒っているような世界の中で、どうやってその深みに出会うことができるでしょう?

さて、私たちが21世紀に経験していることから、あらゆる種類の新たな混乱が生まれていくかもしれませんが、実はこれは新しいことではないのです!預言者イザヤは、紀元前8世紀にこのように記しています。あらゆることがらの最も中心にあるところにわたしたちを引き戻す言葉です。「シオン―古くかつ新しい完全な創造物―には、隅の石がすでに据えられている。」これは、天地の創造において与えられ、キリストにおいて世界のために新たにされた、神の契約本来の真理であり、私たちが今日、そしてすべての聖餐式において祝っていることです。それは「私たちのため」、「私たちの救いのため」、癒された創造物の最初の実りを味わうことを通してなされます。

キリストご自身が隅のかしら石であり、「決して揺り動かされることのない」み国がすべてのものの中心にある守りなき神の領地です。私たちが共に生きる生活は、キリストの傷ある栄光のみ体のうちに見出されるのです。本日の福音には、かなり難しい言葉があります。人々は東から西から、また北から南からこのみ国にやって来ます。けれども門は狭く、入ろうとしても入れない人が多いと言われるのです。しかし、これは脅しではありません。むしろ、すべてのものの中心にある約束が含まれているのです。

ベツレヘムにある聖誕教会をご存じの方もおられるでしょう。巡礼者たちは、小さく低い戸口を通って、キリストの誕生を記念する場所であるこの素晴らしい古代の礼拝堂に入ります。こんなにドアが小さい理由ははさまざまに説明されていますが、最も説得力があるのは、馬に乗っている人は、―友人であれ敵であれ―聖地に入る前に馬から降りなければならないということです。おそらくこれがポイントでしょう。私たちが自分を大きく見せようとしたり、自分自身の能力に頼ったり、自分が他の人より優れていることを主張したりするなら、ドアを通り抜けることができないのです。

私たちがこの場所に入ることができるのは恵みによるのです。神とお互いとに近づき、尊敬と畏れとをもって入るのです。自分が自分が、というものを周りに引きずっていると、ドアでひっかかってしまいます。私たちは、(自分自身でそこに入ることができるかのように)「努力」することはできません。むしろ、キリストのからだの一員として、この賜物を受けることを学ぶしかないのです。

この広島の聖なる地に巡礼者としてやってきたIRAD委員会のメンバーは、コミュニオンというものの性質に関する声明を議論し、同意しようと5年間を費やしてきました。私たちの討議の中心にあるのは、コミュニオンという賜物は特権を持つ少数の人のものではなく、創造物すべてにとってのものであるという強い確信です。教会は、その多様性と証しとにおいて、すべての時代の最後にもたらされる一致のしるしであり、そのしもべに他なりません。この一致において、すべての創造物は、その始まりであるシオンの山での生活の中に結び合わされるのです。

私たちが、自分の力で何でもできるという神話の愚かさを認めるとき、初めて私たちはキリストからの賜物であり、私たちへの招きでもある一致をも認めることができるようになります。私たちは徐々にではありますが、すべてのものの中心、つまり要の石を正しく見るとき、争いでさえ分裂への力を失うことに気づき始めています。

ですから、私たちのために祈っていただきたいのです。知恵と助言の聖霊の賜物が与えられるよう祈ってください。私たちが心の目で、すべてのものの中心にあるものを見ることができるよう祈ってください。

私たちがこの対話の最終段階を終えるのに、広島よりも適した場所はないと思います。広島は、声高に叫ばれる死と滅びの偽りを暴き、静かにささやく声で、しかし決して絶えることなく、復活の約束が語られる街です。

わたしたちの教会のために祈ってください。復活の命に、この復活教会での生活に励まされ、喜びに強められ、お互いへの愛をもってただ一人のキリストを、自身をかけて証しするものとなるように。

この朝、聖餐の交わりを喜びつつ、確かな心を持って祈りましょう。お互いのために、そしてキリストの教会での生活において弟子として生きるというわたしたちの特別な招きのために。そうして、私たち一人一人が、謙虚さと信頼をもって、小さな扉、狭い門を通って入り、すべてのものの中心へと導かれるように。

そのためには、手放すこと、そして神が神であるということを素朴に認めなければなりません。フランスのロシア正教会神秘家であるオリヴィエ・クレマンはこれをこのように言っています。

「自分自身を救うには、自分を守っているすべてのものや、自分の力で何でもできるという思いを手放さなければなりません。無限の神秘的な約束をもって、驚きのまなざしで世界を見て、感謝の気持ちで新たにそれを受け入れなければなりません。すべてのもの―世界、歴史、他の人々、そして私自身―が神の啓示の源となり得るのです。すべてのものの向こう側には、透かしのように、復活のキリストのみ顔を認めることができるからです。」

(翻訳:市原信太郎)
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